君子豹変の意味について


 原 典
     五爻
 大人虎変 未占有孚 (大人たいじんは虎変す。いまだ占わずして まことあり)
   象曰 大人は虎変す。その文、あきらかなり。

      六爻
 君子豹変 小人革面 征凶 居貞吉
 (君子は豹変し 小人しょうじんは革面す けば凶。貞にれば吉。)
   象曰 君子は豹変す その文 鬱(うつ)なり
       小人は革面す 順にして 以って君に従うなり


 『君子豹変とはどんな意味か?』これには実は、アップ以前から、ちょっと引っ掛かっていました。
 実は原典には、『非を改める』と言う意味はないのです。
 少なくとも直接にはありません。

 ところがこれは、案外大きな問題だったようです。私自身二十年来、引っ掛かっていたようです。これに引っ掛かっている人は、私ひとりではないかも知れません。

 『君子豹変』の伝統的解釈は、
 「立派な人は、自分(の非)を改める事に、実に速やかである。」そして
 「時節や周囲に応じて、自己を変革する。」と言うものです。

 上の一行目と二行目に、直接の脈絡がない事に、ご注意ください。古典の解釈がこういう表現をする時には、要注意と思います。奥に何かあるのかも知れません。
 上の一行は、易経が変革を虎や豹、猛獣にたとえた事に対する説明で、
 下の一行は、それが周囲と無関係ではないと言う宣言です。
 そして私の載せた解釈は前者の、
 「立派な人は、自己を変革して行く事、実に凄まじい。」と言うもので、「次節や周囲に応じて」と言う意味は、ほぼ無視しています。これは「つながらなかった」からです。更に、「男子三日会わざれば刮目(かつもく)して見よ」と言う一文を補追しています。
 私がなぜこの解釈を「まっ、いいか。」でアップしたかと言うと、本田済先生が『易経』沢火革の五爻で、
 「大人は自己を改革し、周囲の人々を改革し、ひいては天下の革命を成し遂げる」
 と書いておられるのを見つけたからで、「改革・革命」と言う言葉を使い、「欠点・短所を」とはしておられない。「やっぱり。」です。

 実は二十数年前にこの箇所を読んだ時にも、「やっぱり。」と思った事を覚えています。ではそれ以前にも別解釈はあって、私はそれを読んでいた訳です。そして私は二十数年来、これを疑問に思っていた事になります。

 普通『自己を改革する』と言う時には、
 「善を増し、悪を減ずる。」
 と、二つ並ぶ筈です。
  大人は、剛直な虎。(大人よりも一段下の)君子は、しなやかな豹の換毛にたとえて、『あざやかに変わる』と言うのが、原意です。古くなって薄汚れた毛が落ちて、まるで見違えるように新しい毛が生えて、別人のように変わってしまうのだから、二つを並べるのが当たり前でしょう。 だって、
 だいたい、誰が最初に「悪を革める」と言い出したかと言うと、程氏と朱子で、巨匠中の巨匠です。彼らは何故、一方だけを採用したか?


 また、なぜ易経は、君子、大人の自己改革を、虎や豹の換毛にたとえたのでしょう?
 一つには、それが羽ではなく、爪で子を守るように、非常に厳しいものである事。
 もう一つは、換毛は季節の遷(うつ)り変わりによるものだからで、これで卦辞の解説『たん伝』の、『天地 革(あらた)まって四時(四季の事)成る。』と、つながると言うのです。

 しかしそれならば、大人・君子の自己改革とは、四季や周囲の状況に影響される、周囲に自分を合わせるだけのものに成ってしまう。毛皮、革、上っ面だけが変わるのか? それは『小人革面』ではないのか? ………


 《作後挿入。04-06-09『君子豹変』で検索をかけると、『小泉内閣メールマガジン』(一応、リンクを貼っておきます。→ 別ウインド で立ち上がります。)に、小泉総理の言葉として、
 調べてみると、本来の意味は「立派な人物は日々見違えるように成長する。」ということでした。
 の一文を見つけました。意外 ……… 私が亜流と思っていた解釈は、相当な正当性があったのです。
 二説があり、何故か一方のみが優勢で、おまけに巷間では誤用が流通している格好(かっこう)です。実に興味深い現象です。こんな扱いを受けている格言も、そうないだろうと思います。さて、もう少し詳しく見てみましょう ……… 》

 迷った時には、原典に戻る。まず、原典を示しておきましょう。


   卦辞(各爻ではなく卦全体の説明。易には一つの卦の中に、六つの爻があり、それぞれ関連しながら、独立しています。)
 己日きじつにしてすなわちまことあり
 (絶頂を過ぎると自然、次を産み出す力、『孚』が表面化する。)

  己とは「つちのと」とも読み、陰土。十干の六番目に当たり、「盛りを過ぎた」時期です。
 易経がしばしばこのような表現を使うのは、古代の占いのテキストでもあったからと言うのが、大勢の見方です。占ってこの卦が出たら、何か心当たりのある事を、己の日に変えるのです。我々が今でも大安や友引に結婚式をするのと同じです。
 考えたらあの制約はなかなか便利なもので、大安の日に結婚するだけで、「こんな事を気にかける程、私はこの人の事を大事に思っているのですよ。」という意思表示に成ります。そうやって、周囲の人々を納得させる訳です。

 『孚』の一文字は、『君子豹変』を考える時、相当に重要なものと思われます。
 卦辞にも五爻にも出て来るので、この概念が、両者をつなぐカギと成りそうです。
 孚とは、親鳥が爪で子供、卵を守るのを表した象形文字ですが、これが『内側からの力』と表現したもので、変革は、女性原理によるものだと言うのです。この断言には、驚いてしまいます。
 易経全体を貫く、女性原理に対する礼賛を、改めて感じます。
 しかも、子を守っているのは、羽ではない。爪です。そして改革とは、殻を破って産まれて来る子供を、守り育てる事らしい。どうやら、ただ「感動した。」と言っておれば良いと言うものでも、ないようですね。《-笑-》

 おおいにとおりてただしきに利あり。
 (根源的な力は妨げなく あまねく運行し、世界の営みは倦まず 弛まず、悠然と、すべてを産み出して行く。)
 ほろぶ。
 (後悔する事、とどこおりやこだわり、結滞はなくなる。まっすぐに進んで行ける。)


   たん伝(卦辞の説明。)
 革は水火相い息す。二女同居して その志し 相い得ざるを 革と言う。
 (革の時とは、これから消え行くものと、昇り行くものとが、ひとつ屋根の下で共に息づく時である。
 ちゃんと、二つ揃っていたのです。
 その両者は、女。つまり、中女と少女、共に家(世界)を守ろうとする意志ですが、一方は精錬された目で過去と現在を見、一方は未熟な目で茫漠たる未来を見ている。
 中女は今までの延長線上に未来を見ているが、少女は未来を自分の中に持っている。
 その性質も方向性自体も、相容れない。これが変革の時の特徴である。)

 己日にしてすなわち まことあり。あらためてこれを信ずるなり。

 絶頂を過ぎると自然に、次を産み出す動きが表面に表れる。今までの認識を、その方向性の根底から革めて、未来は理解できないので、信じる ……… 願い、ビジョンを明確にし、その実現に向かい、今のあり方すべてを改め、変革へと配置する事が、唯一、生存の道である。)

 ふみ 明らかにして 以ってよろこび、大いに享りて 以って正し
 あらためて当たり そのい すなわち亡ぶ

 (『文』とは毛皮の文様ですが、これを何と表現して良いか解りません。
 私は、さまざまな未来への願いや過去への想い、現在への愛着のすべてが、その情感を失わぬままに、理知的にも整理されたものとします。『文』とは、そう言うものだからと言うのが、私の理由です。
 毛皮の模様と言うのは、内側の心が外ににじみ出たものではないのか?
 (特に三毛猫を見ていると、あのまったくデタラメな、完全にふざけきった模様は、やはり節操も緊張感もすっかり欠いた性格が、そのまま毛皮に表れたものではないかと、思わざるを得ません。易経の作者も、きっとそう思ったに違いありません。)

 『説』は、言べんによろこび。兌は喜びであって、漢字の意味からすると「解きほぐす」「心ときほぐれて口に出して喜ぶ事。」との意もあります。 先ほど述べた、少女の心の中の未来が、現実に展開されて行くのでしょう。
 説を「よろこび」と読ませるのは、それら過去と現在のすべてが明らか、はっきり筋道も道理もつけられ、心の中に収まった。自己を表現するのに、これからを進んで行くのに抑止力がなくなった。吹っ切れた。明日を切り拓く原動力として、配置されたと言う事でしょう。
 その状態こそが、大いに亨る。これをするのは、大変な事です。しかしそれによってのみ、『正』。物事の存続は、成し遂げられるのだと易経は言います。
 常に改革の意気をもって、絶頂の時にこそ改革の機会を窺って物事に当たれば、やっとはじめて、悔いは亡ぶ。

 土性は、『変化』を意味します。
 陰陽五行論では方位・時間に木火土金水の五行を割り当てるのですが、土性は他の四行の間、変わり目に配置されます。本当に変わる時には、土にまで触れなければならない(原点にまで戻らねばならない)のでしょう。
 「仏教が新しい展開を見せる時、必ず釈尊に戻る。」と言われておりますし、私が学生時代、師事したお好み焼き屋の大将も、「新しいお好み(新商品の事)が出来る時には、必ずイカとブタに戻る。」と言っておりました。
 ……… まことに感慨深い事であります。………

 存在の形相エイドスを『変化』と捉える易経は、盛りを過ぎた時点が、変革の時だと言う ……… 我々も、これは後から振り返ると、いつも思い知らされる事だと思います。
 絶頂を実感した時こそが、顔色を変えて次の展開に乗り換えねば成らぬ時である、と。

 たとえば ……… 新しい仕事が軌道に乗った。触ってはいけない!
 次第に拡大し、絶頂を迎える。「俺、一生この仕事で食っていけそうだなあ。」などと思い始めた時が、そのすべてを革めるべき時期だったという事が、非常に多いっ!
 これが、大きなサイクルの軌道に乗ったのなら、小さな事のみ改変し、大きく革めるべきではない。小さなサイクルで成功しているのなら、全部、捨てるべき。
 しかし、その判断は、いつも非常に難しい! ………

 考えてみれば我々、たかだか現在の平穏な暮らしを維持するためだけに、今までの一切を打ち捨てねばならぬような局面を、何度かくぐり抜けねばならないのですね。大胆かつ、慎重に行きましょう。以上をもって、やっと初めて正しい。凶禍から免れる。家も会社もお国も、つぶれずにすむ。)

 天地革まって 四時成る
 湯武 命を革めて 天に順って 人に応ず
 革の時 大いなるかな

 (天地の革まる事が、四季の安定である。
  今の季節が革まるから、天地はそのままでいられる。
 現在の均衡を崩してまで進歩、革新する目的は、実は、調和、安定、存続である。
 殷の湯王も周の武王も、天 ……… 本当に混じりっけのない、自己の最内奥の自己自身の ……… 声に随順し、それをもって人、周囲や時代に対応したから、長い悲惨な世の中を、変革して終わらせる事が出来た。
 彼らの魂も、それでやっと安らぐ事が出来た。
 革の時は、人々の生存への意志と、聖者の魂が噛み合った時。偉大な瞬間である。
 革の時は、世界がその姿をとどめるために、すべてを刷新する時。天地の営みである。)

(参考までに初爻から四爻)

 で、これからやっと『君子豹変』が出てくるのですが、

   五爻
 大人虎変 未占有孚 (大人たいじんは虎変す。いまだ占わずして まことあり)
   象曰 大人は虎変す。その文、あきらかなり。

   六爻
 君子豹変 小人革面 征凶 居貞吉 (君子は豹変す 小人しょうじんは革面す 征(ゆ)けば凶。貞に居(お)れば吉。)
   象曰 君子は豹変す その文 鬱(うつ)なり 小人は革面す 順にして以って君に従うなり

 多くの方は意外の感に打たれましょうが、実は原典は、これだけ。本文はたったの一行。
 それで、あれだけの解釈や論議がなされているのです。
 だからこそ、さまざまな論議がされているのかも知れないし、これでは解釈のしようがないとも言えますね。

 しかし我々は今まで、緻密に詰めて来ました。全体の流れも知っています。ある程度、推し量る事も出来るでしょう。
 まず、易では五爻は王位です。改革の中心人物です。世の中が変わる時、たとえばわが国の明治維新の近代化を、後から、または外から眺めると、中世のお侍の時代が、近代国家にめきめき変容して行くさまは、一つの大きな有機体が、見事に革まって行ったように見えます。
 しかし、坂本竜馬や勝海舟を始めとして、変革には中心人物、主導者がいます。自分の中に未来、『孚』を持っていた人達ですね。彼らは、
 「この国を、守りたい。この国の人々を、助けたい。そのために、この身を投げ出す。」
 そう言う気持ち、そのものだった。これは、女性原理です。『卦形の覚え方』で述べた通り、『外に陽なるものは内に陰を持っており、陰なるものは内に陽を持っている。』
 もっとも男性的な人々は、その内側に深い女性性をたたえている。優れた女性もその通りで、そうして意識の均衡を保っている。これが、意識の基本的な仕組み、ジェンダーと言うものでしょう。

 改革の主導者は、問うまでもなく『孚』まこと、まごころ、未来を持っている。そのビジョンは明確、あきらかである。……… と言う所でしょう。

 次はいよいよ六爻です。六爻は一番えらい人ですが、現役を引退した会長、隠居の地位です。
 象伝に、「その文 なり」とある通り、五爻が政治家なら、六爻は学者、官僚と言った所でしょうか。あんまり表に出て行って、演説したり交渉に当たったりしない方がいい。分限を守って内側の仕事に専念するのが良い、と言うほどの意味でしょう。


 そして「君子豹変 小人革面」とは『ヴォータン』の事を言っているのではないか? と思います。
 ヴォータンとは、ユングが第二次大戦の真犯人として摘発したもので、もとはドイツの神話、昔話に出て来る、悪魔の名前です。あの時ドイツと言う国が、ヒトラーを頭、ないしは顔として、一匹の獣に成った。人間が集団化すると現れる、言わば『集合の霊』とでも言いましょうか。ヴォータンはおそらく、漠然と『雰囲気』と訳されて、流布される事に成ると思います。
 (詳しくは『現在と未来』C.G.ユング著 松代 洋一編訳 平凡社 等をお読み下さい。)

 人は集団を形成すると、一個の有機体のように成ります。
 『だんご三兄弟』のように長男・次男・三男と、実に自然に、役割を受け持ってしまいます。演じてしまうのです。
 ところが、その集団を維持するためには、『革』を経なければならない。そうするとまるで、その集団の「生存への意志」を体現したかのような、改革を成し遂げる人物・グループが出現します。(出て来なく成れば、それでその集団は、消滅します。)
 また、それに迎合し、補佐するグループ。そしてその他の者は、周囲の『雰囲気』に鋭敏に反応し、アリや蜂のように『集団の意志』を成し遂げます。

 プラトンも、「人間と言うものは、誰かを代表に選んで、それに従って行こうとするものだからね。」と言う意味の事を言っています。 出 
 「人間は目の前の事実を信じず、人が言っている事を信じる。」
 そう言う性質が確かにあります。たとえば、オウム一行がテレビに出て、にこやかに、しかも自信満々で話しているのを見たら、実際には被害にあった方々が苦しんでいるのを知っているのに、「どうやら彼らは、悪い人達ではなさそうだ。」と、つい思ってしまうのです。

 五爻、六爻には、三者が出てきます。
 これはそれぞれの『思考や判断の基準・動因』について言っているのではないか?
 大人・君子には、それが自分の内側にある。小人は、外側にある。

 大人 ……… 自分の中に孚を持っていて、それで改革する。
 君子 ……… 自分の中に孚があるので、大人に協力する。
 小人 ……… 周囲の雰囲気や状況に自分を対応させるだけで、それを自分の意志と思っている。善にも悪にも転ぶ。

 小人には内面性、自分で考えた事が思考や判断の基準ではない。だから「表面だけ合わす」事になる。それが『小人革面・順にして以って君に従うなり』でしょう。
 しかし私は思うのですが、我々一般市民は、それで良いのではないですかねえ?
 人はまず、自分の仕事や家庭、人生に専念すべきで、普通はそれだけで手一杯。それでもずいぶん不備のあるのが当たり前で、分限を越えると憧れや傲慢さを刺激され、赤軍派や中核派に成ってしまいます。良い事ばかりではありません。孚(この場合は内面性)がないから、垂れ流しの情報を自分の意見だと思ってしまい、「順にして以って麻原に従うなり」に成ってしまう。
 これに対して哲学者は、いつも長い説明の果てに、「自分の頭で考えましょう。」と訓戒を垂れますが、彼らにも落ち度があります。「どうしたら自分の頭で考えられるか?」と言う方法を、誰も教えなかったからです。『自ら考える事』の著者でさえ、これには言及していない。これでは『自ら考えていると思い込んでいる事』と、区別がつきません。
 私はこれを自覚する事が大切で、基本的にはそれで充分だと思います。
 そうしたら、勝海舟について行く事はあっても、麻原にはついて行かないと思うのです。たとえかすかにせよ、誰にだって「自分」は、しっかりあるのですから。


 では更に、『革』の原意に立ち戻ってみましょう。

 『革』の大成卦、基本的な意味は、獣の皮を水につけ、火にかけ、たたき、こすり、なめす大変な作業。作業場の熱気が伝わって来ます。そうすると、美しい皮に『変わる』……… 漢和辞典によると、『革』は、「毛のない皮」と言う ……… それで、「悪を取り去る、あらためる」としたのかも知れませんね ………

 そうして読み返しているうちに、私にとっては驚くべき事が見えてきたのです。
 「これはユング派の言う錬金術の過程と、ほぼ一致するではないか!」
 ユング派の人々は、人間の自己実現・個性化の過程、つまり『革』を、錬金術の過程の中に観察するのです。

 錬金術は、男女一対の術者で行われる宗教的な儀式で、鍋の中にさまざまな物を投じ、煮る。そして変化(革)を繰り返し、金 ………(必ずしも実際の金ではなく、究極物質と呼ばれるもの)……… を産み出そうとする。結合と出産(創造)がテーマです。

 「これは西洋の、お護摩だな。」と思います。密教の行者は火の中に念を投じる。そうして神仏などの霊を降臨させ、祈願の成就を祈ります。五穀なども投ずると聞いています。
 考えてみれば亀トだって、亀の甲羅を下から火であぶり、その変化で占います。
 そう言えば、どんな儀式をするのか知りませんが、拝火教(ゾロアスター教)なんて言うのもありました。
 たぶんこれらの所作は人類普遍のもので、私は現代の長い「お料理ブーム」も、これと深い関係があると思います。まったくこれらは、現代が失っているものではありますまいか?

       中略 (長々と錬金術との符合を説明する。)


 更に私の目には、次の文章が飛び込んで来ました。
 「ユングも『自分一人だけで勝手にということはありえない。個性化というものは社会の中で人々と一緒に成ってこそ行われるんだ。』と述べている。」
(『心の不思議を解き明かす』ユング心理学入門Ⅲ 林道義 著 PHP新書 p169)

 『自己実現・自己改革・個性化は、他者との接触・関連の中でしか、あり得ない。』

 「これは、つくづく、言えるなあ ………」
 そう、感じ入りました。自分と言うものを世の中に、周囲に出して行き、それで叩きまわされたり共感を得たり、しょげたり喜んだりしながら、現実・意識の足場を強く固め、理想・無意識をだんだん身近で気高いものにして行く ………
 林道義先生は、
 「心理学と言うのは、無意識の究明が面白いので、つい、そっちばかりやってしまう。しかし、意識の努力も同じくらい大切な事で、意識と無意識に同じくらいウエイトを置いたのが、ユングのいい所。」
 と、繰り返し注意を呼びかけておられます。
 しばしば神秘家あつかいされるユングの、おそらくはこれが実像でしょう。


 「悟りとは、高度な自閉症。」
 そう言った方の事を、かの筒井康隆先生が紹介しておられるのを読んで、思わず笑ってしまった事がありましたが、確かに釈尊は他との関わりを持たず、独力で悟りを開いたように見えますね。後に「いた筈だ。」と言う訳で、『独覚(縁覚・辟支仏)』などの概念も出てきます。しかし実際は、どうでしょう?
 釈尊は、マガダとコーサラと言う大国に挟まれた小さな文化国家、カピラバストゥの王子として生まれ、時代もちょうど、バラモン教の衰退期で、六師外道に代表される新思想、百花繚乱の時代です。まさに仏陀が出なければ成らない時代と場所だったと言えましょう。仏伝でも、釈尊は時代と場所を選んで生まれて来たと言う事に成っています。これは神話でもありますが、必然性を示唆するものでもあると思います。ちゃんと時代や地域とも、関わってくれているようなのです。
 その釈尊も成道された後には、八十歳で入涅槃されるまで、過酷なインドの地を、歩いた歩いた歩いた。今度は釈尊の側から、我々に関わって来てくれているのです。
 もし、日本で年金暮らしをしていたなら、本当に二百歳くらいまで永らえたかも知れません。
 そうして、底も知れない内面との均衡を図っていたのだと思います。
 仏教のどの宗派でも、他者との関連をやかましく言います。こもり切りのように見える禅宗でも、托鉢など、かえって熱心にします。でなければ、高度な理論や哲学の楼閣の中に、たちまち埋没してしまうのでしょう。


 虎や豹の毛皮があざやかに、あでやかに変わるのは、内側からの力による。しかしそれは、四季の移り変わりと無関係ではない。
 木々の葉が赤く色を変え、黄金色に輝くのは、内側からの力による。しかしそれは、霜や陽の光と、無関係ではない。

 おそらくこのあたりが、易経の真意ではないでしょうか?

 また、易の基本的な哲理として、「一つの大きなものが、自己も世界も生み出しており、両者は無関係ではない。」と言う事があり、本田済先生も、

 「すべて変革ということは天地の動きに沿った行為である。天地陰陽の気が常に変革してこそ、四季が成立し万物生ずる。」
 (『易』(下)朝日新聞出版社 p146 )

 と、説明しておられます。おそらくこれが、理解の本流であって、上で私が述べた事は、その一つの説明でしょう。


 程氏、朱子は、天地自然の変革を語った。だから、他を語る必要はなかった。
 「自然も人も獣も、同じように変わるんだね。」と言う事は、こちらが読み取らねばならない事でした。それを私が巷間の誤用につまずき、「何故二つ並ばないのか」と、ヘンな引っ掛かり方をしたのが、始まり。
 では、どのように終わりましょう。


 以上の事を踏まえて、『君子豹変』を一言で表現すると、どうなるでしょう?
 『君子は周囲と関わり合う事によって、人々を感化しながら、あざやかに(速やかに)自己と周囲を向上させ、変革して行く。』
 くらいが妥当でしょうか? ちょっと、もたついています。

 巷間、『君子豹変』とは、「えらい人は、いきなり(態度を)変える」と言う意味で使われています。
 考えたらこれは、ある意味で『純粋な直訳』です。(ただ、『態度を』と言う一語を補ったので、「君子」を「ヤクザ」に言い替えても、意味が通るように成ってしまっています。《-笑-》)

 そうだ、流通するのはいつも、徹底して単純な表現だ………
 単純な表現とは、正鵠を得た表現です。しかし、この君子豹変には複数の要素があって、一言では表現できません。これが混乱の、一番の原因かも知れません。
 では、複数の解釈を、そのまま使うか? 曖昧な表現を使うか? いや、世間様はこの点、天才的なセンスを持っています。アタマで考えたものは、ただちに拒絶されます。たとえその時バカ受けしようが、一瞬で忘れ去られます。「成るようにしか」成りません。

 君子はあざやかに(すべてを)あらた める。

 と言うのは、どうでしょう? しかし巷間では、

 君子はあざやかに(自他を)あらた める。

 の方が好まれるでしょうか? これも、直訳です。用例としては ……… ジョギングを始めたり、結婚して生活が変わった時に。衣替え、模様替えの時に。会社の組織替えをした時、使えます。

 また、朝日が昇って周囲が急に景色を変えた時、呟けば良いかも知れません。
 あざやかに速やかに周囲を変えた太陽は、君子のイメージに近い。大地は太陽の出現を、待っており、太陽はそのために、昇ってきたからです。

 確かに自分の非をただちに革める事は、よほどの人物でないと出来ません。むしろ、えらくなれば成るほど、これは難しいでしょう。そして、自分の非を革める人がなかなかいないので、「君子なら非を革めますよ。」と言う事で、こちらの解釈が優勢なのかも知れません。そう考えると、こちらの解釈も捨て難く成ってきます。(笑)
 しかし、君子が「しか られたら反省するよい子」であると言うのは、感情的にしっくり来ません。これも、巷間の誤用が流通している理由かも知れません。

 『大成卦と各爻の無関係の関係』
 私は『実占上の問題点』でそう述べましたが、この場合、見事に関連がつきました。
 他も案外、この調子でやってしまえるものもあるかも知れません。
 (爻の究明に専念している場合もあり、『すべてが解ける』と言う訳でもないと思います。)

 また、これで、困 → 井 → 革 → 鼎 の通りが良く成りました。
 『序卦伝』では、
 「上に困しむ者は必ず下に反る。故にこれを受くるに井を以ってす。井の道は革めるざるべからず。故にこれを受くるに革を以ってす。物を革むる者は鼎に若くは莫し。」(『易』(下)本田済 著 朝日新聞出版社 p372 )

 とありますが、これを砕いて解釈すると、 ………

 上(外界)に八方ふさがりに成ったら(困)、人は自分のもっとも深いよりどころ、自分の出発点にまで立ち返り、自分の内側から力を汲み上げる。(井)
 その中から新しい展開(革)が出てくる。
 そして安定した発展的な日常が始まる。(鼎)

 そしてまた、次へと歩み始める ………

 毎朝井戸から水を汲み上げ、煮たき物をする。このような日常的な所作に、我々の意識は何かを「なぞらえる」のでしょうか? ユング派の夢分析などに興味のある方には、易はことに面白く読んでいただけると思います。



 PS.林道義先生のホームページには、(別ウインドで立ち上がります。)また説明つきでちゃんとリンクを張りたいと思っております。あの文章は、いま多くの人に読まれるべきと思います。特に、分析心理学の目で見た『時事評論』は、圧巻!

 そして今、子育て、教育、育児に関して、ずいぶん色々な事が判り、実にさまざまな事が言われていますが、ちゃんと医学のデータに基づいたポイントを指摘して下さっています。これはまったく、ありがたい!

 また、漫画『ヒカルの碁』の論評には、心底びっくりしました。いったい、ヒカルと佐為の関係とは? ………(トップページの『囲碁』からすぐ見つかります。)



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