天風こう五爻の謎
これは易経の研究ですが、先述の『君子豹変』同様、易経に関心のない方にもなるべく面白く読めるよう、書いております。せっかくですから、どうぞご一読ください。易の愛好家達は、こんな謎解きをして遊んでいると言う、一例です。
この卦のこの爻は、今までずっと、気に成っておりました。いや、この爻も、『解釈のしようがない爻』ではないでしょうか? もしかしたら、人間には理解できないんじゃないかとさえ思えます。
まず、原典をしめしておきましょう。
以杞包瓜 章含 有隕自天
章を
天
『隕』と言う字は、隕石の隕ですね。「落ちる、くずれる、倒す」などの意味で、良い文字ではありません。また、「とりこにする」の意味もあって、おもしろい。この場合、地球の引力圏のとりこにするのか、されるのか? とりこにされて落ちるのだから、堕落と言うニュアンスもあり、『天風こう』の卦意にも通じています。
もっとも素直に読んでみましょう。この卦は全陽の乾為天の足元(初爻)に、陰が現れた形です。易はよく、このような見方をします。お天気が西から東へ移るように、易も下から上へ移ってゆく、進んで行くと言う見方です。(全陽の乾為天に下から変化があるとしたら、初爻が陰に成るしかありませんものね。)
似た考えをご紹介しておきますと、ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、
「世界には下から上への道と、上から下への道がある。世界は自然に下から上へと向かうので、上から下への道を学べば、世界は治まる。」と言っています。
全陽の乾為天の足許に、陰が現れる。
「男が初めて女に遭う形 ……… 」
これが基本的な意味です。
おまけに五爻は、乾為天の王位で、聖人君子、大人(たいじん)の爻です。帝国の王が、一番下の、言わば花売り娘に心惹(ひ)かれ、下ろうと言う形です。
「これは、駆け落ちの爻だな。」
誰でもそう思わずにはいられないでしょう。
上卦の『天』は、日々の間違いのない、力強い運行です。これに問題はありません。
古代の天文学は、随分と発達していたようですが、この『隕石』だけは、まったく計算外に降って来ます。どう考えて良いか、困ったでしょうね。星が流れて落ちたとしか思えなかったでしょう。『三国志』などでも、星が流れたのを見て、「孔明が死んだ」とか言っていましたね。
まったく、「予期せずに遭う」で、それは男と女が出遭う象(かたち)、この卦を一言で『めぐりあい』と言ってのけた黄小娥先生は、言葉の達人でもあると、改めて感服します。
夜空の星々が、私達がこの世でめぐり合う人々だとすれば、一瞬にきらめいて、「あっ」と軽い驚きが口からもれたとたん、消えてしまう流れ星は、それだけに長く忘れられないのです。
普通に占ってこの爻が出たら、それだけと考えていいでしょう。
しかし、たわむれに、恋は済まない事があります。
では下卦の『風』とは、どんな風でしょう? 巽の風には、従う風、出入りする風、迷う風、雰囲気としての風、風評としての風と、色々あります。ひとつ私の経験をお話しましょう。
中学生の頃の話ですが、私はマンガに没入していた時に後ろから殴りかかられて、よけた事があります。後頭部にものすごい風を感じて、思わず首を引っ込めたのです。自分も相手もその事に驚き、喧嘩には成りませんでした。
同様に、ひどい胸騒ぎに二週間ほど悩まされ、「これは地震でも起こるんじゃないか。家族でも死ぬんじゃないか。事故でも起きるんじゃないか。」と腹をくくっていて、とうとうその胸騒ぎが頂点に達した時、再びこの風が吹きました。その時、私はそれから長く懸想する事になる女性とすれ違っており、彼女はもう、私の斜め後ろに通り過ぎていて、お互いを少し振り返るような形に成りました。
そのとたん、胸騒ぎは収まり、「原因は彼女だったのか。」と気付いたのです。その女性とは結局、手にも触れないままでした。と言うのも私は、病的なほどの激しい抑止力に捉えられ、話す事さえままならなかったのです。
まあ私は恋愛方面には奥手なのですが、別に清らかと言う訳でもありません。あなたも深い仲に成ったり、結婚したりした相手には、この『抑止力』が、あんまりなかったのではないか? なんとなく「すんなり」結婚したり、付き合う事に成ったのではないか?
逆に、強く引き合っていても、何故かしら親しくさえ成れない事もあります。不思議なものです。この壁を越えたらどうなるのか? この意識の障壁は、何なのか? と、深く考え込んでしまいました。
映画『屋根の上のバイオリン弾き』に、「結婚相手を自分で決めるなんて、考えられん事だ。」と言うセリフがあり、「欧米の方でも、昔はそうだったのか。」と驚いたものです。
天風こうの卦自体、「嫁取りには凶」とはっきり書いてあります。
天風こうの風 ………
この風は、『日常性と非日常性の境界を越える時に吹く風』です。
こちらの世界とアチラの世界の境界を越える時に吹く風です。
命に関わる時に、命そのものが感じる変動かも知れません。
多分、上で述べた『意識の障壁』とは、この境界を越える恐ろしさ、意識を放棄する事への原恐怖だと思います。
この風を、劇的に表現したのが宮沢賢治の作品で、風が「どどう」と吹けば、絶望の淵に、『銀河鉄道』が現れる。得意の絶頂で、『注文の多い料理店』が現れる、平穏な日常に、不思議な転校生が現れる。(これらの事は山折哲雄先生のご指摘です。) 出
強烈で破壊的な恋愛は、お互いの『影』に
よく例に引くのですが、私の兄夫婦は豊中と芦屋で、二階から目薬のような結婚をしました。ところが後で判った事には、三代前の先祖が能美島におり、私の母と先方の母には、共通の知人さえいたのです! 安物のドラマでさえ言うのをはばかられるような事が、現実には案外よくあるのです。
(兄は結婚式直前まで真剣に迷っていましたが、結婚生活25年の今ではもう、ベタベタです。まったく、『 つがいの人間、こちらがメスで、こちらがオス』と言った感じです。)
もちろん、強い恋愛感情の全てが悪いと言う訳はありません。影の共有は、結婚の大事なテーマでもあります。熱烈な恋愛の結果、結ばれて幸せに成ると言うのが、理想ですよね。
悪いのは、病的な恋愛です。誰もが幸せを望んでいるのに、幸せに成れないからです。「この人のためなら不幸に成ってもいい。相当の苦労をしても良い。」と言うのは、結婚生活全般にわたっての、非常に大切な気持ちですが、これは言わばそれだけで幸せの半分で、「相手も周囲も自分も破壊する」と言うのでは、悪魔の放火に遭ったようなものです。
考えたら、結婚すると成ったら、これからの生活、住む所、子供の教育、親の扶養、職業への影響、嗜好の抑圧と、考え対処すべきものが山のように出て来、あまり浮かれ上がっている訳にも行きません。しかし、それらの現実問題は、相手への愛情や、結婚への喜びで、楽しく乗り越えられるものと成るのです。
ところが『駆け落ち』は、その正反対です。『現実』全部をぶち壊して、ただ結ばれようとしているのですから、何がその目的なのか? 単なる自殺か? それとも ………
さて、次に一文づつ見て行きましょう。
これも問題はありません。「なぜ瓜か」ですが、古典に出て来る瓜と言えば、日本人ならすぐに中世のさくらももこ、清少納言『枕草子』の、
うつくしき(可愛らしい、いとしい)もの 瓜にかきたる稚児の顔
を思い出すのではないでしょうか? 瓜は
それを大切に杞(カワヤナギの籠)で包む。私はこれを「バスケットの中にサンドイッチを入れるようなものです。」と表現しましたが、本田先生の解説ではそれに続いて、卦形全体からの判断に入ります。この解釈を読むと、杞と瓜の関係は、親子か親戚かと考えてしまいます。
ここから道徳、倫理面の問題と成ります。上卦天の中央の五爻は、固く自己を戒め、陰の伸長から我が身を守る。これがこの卦の主題である事は、間違いありません。
立野先生はここで、ため息が出るような見事な比喩を持ってきますが、この比喩はおそらく、立野先生の独創で、著作権に触れるので割愛します。(本を買ってください! トップページの『参考にした本』で紹介した立野先生の著書は、易の愛好家なら、まず買っても後悔する人はないと思います。)意味は、
「
と言うものです。まことに易経らしい発想です。
( 作後挿入 『杞と瓜の関係』も、本田先生の独創と思います。しかしこれは、個人の発想を越えた普遍性があるので、私自身の検閲から漏れ、数日間、アップしていました。申し訳ありませんでした。)
章を
章は文章の章です。手紙、上奏文、音楽の一節、あきらか、あらわれる、などの意味で、そう言った綾なす美しい想いや情を含む。何に? 一行目の瓜ですが、この爻、全部が章を含んでいるのかも知れません。
天
一行目も二行目も、大変結構な事で、
「もしそうしなければ、お星様が間違って流れ星に成るように、天から落っこちてしまいますよ。これはもちろん、悪い事なのですよ。気をつけましょう。」
そう読んだら何の問題もありません。しかし、何か引っかかりますね。
すると「やはり」です。王夫之(おうふうし)と言う17世紀の学者が、
「陰を防ぐという志を立てて、天命のままに放っておかない。そこに天命を超えた奇蹟も起こる。それが天より隕つるありだ」
と言っているのを、本田先生が紹介しておられるのです。(文庫版ではp114)
「困った! 漢字の意味が、易経の創られた時期と現代では違うのか?」
そうなのです。漢字には、「この漢字はあの時代のこの地域だけで使われた。」などのものがあり、学者はそう言ったものを手がかりに、作品の時代的な位置付けをしたり、作者を割り出したり、思想史的な流れを追いかけたりするのです。
しかし時代によって多少のニュアンスは変っても、そうそう意味までは変りますまい。そんな例は、私は聞いた事がありません。でなければ漢文は、「奇跡の表記法」ではなくなってしまいます。何千年も前の偉大な詩人が感じたそのままを、今の我々凡俗の者が、その通りに受け取れる所が、漢文の奇跡なのです。
それなら王夫之の採った解釈は、少々強引な事に成ってしまいますね。「努力によって起きる奇跡が、隕ちる事だ。」と言う訳ですから。
だいたい、「
もしかしたら、
ために、
天
と成るのかも知れないではないですか ………
私に漢文の講義をして下さった先生が、
「漢文は、好きなように読んで良いのです。」
と言っていました。「たとえば、」と言って、
「禁 薫 酒 入 山 門」と黒板に書き、これを、
「薫酒 山門に入るを 禁ず」と読もうとも、
「禁ずれども 薫酒 山門に入る」と読もうとも、自由だと言うのです。
先生は更に続けて、「最近のお寺では、カレーライスも作らんといけませんから、タマネギも通る訳です。」
と、追い討ちをかけ、学生達を更なる笑いの奈落へと突き落とすのです。
(この人いま、某大学の、学長です。さすがですねえ。)
『
とは、どういう事か? 王夫之、歴史に名を残すような学者です。何か強く言いたい事がありそうですが、何が言いたいのか、解らない ………
「天才が、たたらを踏む所には、何かある ………」
そう確信していると、おそらく一生に一度も見れない映像を目にしました。
05-12-03PM09時頃、オーストラリア南西部、数百キロの範囲で観測された、隕石の映像です。 出
月と同じくらい、いや、月の数倍、いや、十倍くらいかも知れない ………
白銀の大光球!
番組では「火の玉」と表現されていましたが、映像からは熱は感じられませんでした。星と同様、冷たい光です。
輪郭が、かすかに青白いのは、夜空の色でしょうか。 ……… これは隕石の表面が、常識ばなれした高熱である事を示しています。
それがちょうど、飛行機が着陸する時のような角度とスピードで、遠くの山影に姿を消す!
我々がたまに見る、夜空に細い線を引いて消える普通の流れ星は、マッハ75〜115と読んだ事があります。大きさも、チリのようなものです。それが空気抵抗のまったくない宇宙で、そこまで速度を上げ、大気圏に接触したとたん、燃え尽きてしまいます。しかしこれは、そんな物ではなかった。まともに濃い大気の中を泳いでいました。
たまにフラッシュのような光がほとばしるのは、表面が砕けて、破片が隕石自身の熱で、瞬時に燃え尽きるからでしょう。まさに、光のかたまりが落ちてきたようです。
流れ星と隕石とは、まったくの別物です。
番組は、
「カミナリのような音とともに ………」
「専門家は明るさから見て、バスケットボールくらいの大きさだったのではないかと ………」
と、紹介します。
そして、その場に居合わせた人の、驚嘆の顔。美しいとか恐いとか感じる余裕もなく、ただただ驚いて、隕石に目を「とりこにされて」います。偶然にせよ、よくぞあれを動画に収められたものと、感心します。
ちゃんと軌道を計算して、天神祭りのフィナーレなどに、漬物石でも落とせば良いかも知れませんね。(失敗したら、えらい事だ。)
「天風こうの五爻『隕つる事あり』を考え詰めている時に、隕石の映像を見た。出来すぎている。これは共時性だ。この映像の中に答えがあるかも知れない。いや、
このイメージそのものが、答えなのではないか?」
易経の作者も偶然、白銀の大光球を見たのではないか? ……… そんな妄想さえ、湧き上がって来ます。
美しいと言えば、あれほど美しい物もないでしょう。この世のものではないのですから。
恐ろしいと言えば、あれほど恐ろしい物もないでしょう。近くで見たら、卒倒、失神と言うより、純粋な気持ちで素直に気絶するかも知れません。
すさまじい轟音とともに、
太陽よりも鋭い光で夜空と大地を照らし、
広範囲に木々を打ち倒し、
巨大なクレーターを作り、
その中心の地下深くには、正体を残す事がある ………
駆け落ちも、そうですね。
死ぬの生きるのと大騒ぎをして、
犯罪のような緊張を伴い、
周囲に大迷惑をかけ、
その結果はたいてい、石ころのようなもの。
ところが高い地位で安定している人ほど、こう言った誘惑は、誘惑以上のものと成ります。単に、退屈でたまらないとか、違う人生を味わいたい等のものではなく、自我発展の道に組み込まれてしまっていて、この気持ちに背く事は、文字通り「何かの死」を意味します。「先に進みたければ、全てを放棄せよ」と迫られるのです。
天から隕ちる事自体、きわめて珍しい事です。それを目にする事は、奇跡と言ってよく、それ自体、章をふくんでいます。
これを単なる『悪者あつかい』には、したくありません。
駆け落ちと言うものは、第三者の目から見たら、応援したくなるものです。惚れるからには、惚れるだけの理由があるのでしょう。ショウペンハウエルも、「男が自分の利害を無視して愛した女に走った時、我々が喝采を送るのは、彼が個人より『種』の意志に従ったからである。」と言う意味の事を、言っていました。
(しかしたいていの場合、駆け落ちは自己破壊の願望が衝動の主因で、ほとんど無残な結果になる事は、言うまでもありません。)
昔から、「妾の子は優秀だ。」と言われています。
狂おしいまでの愛情で結ばれた男女から産まれた子は、特別な人間だと。
レオナルド・ダ・ビンチもそうだったし、イエスまでそうだったと言う人もあります。ほか、尊敬すべき人で複雑な出生を持った人は、少なくありません。
自然はたまに、そう言った奇跡を起こします。
夜空に永遠に光っておれば良いものを、大地に惹かれて長い輝きを一瞬の光に変えて地上に落ちる。それは大抵ただの石ころに成るが、稀に世界に光を与える事もある。
源氏物語の主人公、『光源氏』のネーミングも、そう考えるとなかなか、お洒落と厳粛と本音の中心を踏んだ、絶妙の均衡があるのかも知れません。
この爻、星が大地に惹かれて落ちる象。
原典は、イメージをそのまま書き写しているのです。
このイメージがどのように現実に展開されるのかを考えるのが、易の『解釈』です。
結論としては、大凶。ごく稀に大吉。
夜空で天の運行を支えているあなたが大光球と成って、地に隕ちたければ、吉。嫌なら凶。(普通、いやだ。)
長く想っている人(もの)を占ってこの爻が出ると、それは流れ星と成って消える前兆。大切なら急いでください。間に合うかどうかの、瀬戸際です。
営業や政治的な仕事を占ったのなら、純粋に凶。贈賄や妙な接待、経理の誤魔化し等の誘惑には、絶対に乗ってはいけません。取り返しのつかない事に成ります。しかし、今の努力を続けていれば、思わぬ福があります。
開発や企画の仕事、学問には、疲れて誘惑に引っかかり堕落してさようならと言う占断と、現在の研究や努力を続けていて大ヒットと言う占断があります。どちらかは、本人がすぐ判るはずです。
結婚を占うのなら、凶。自分の悪い運命に組み込まれた相手でしょう。しかし、ダ・ヴィンチや光源氏が産まれて来る事がありますので、ごく稀に大吉です。また、『ロミオとジュリエット』のように、あなた方の人生を棒に振る事によって、両家の怨恨が終結するかも知れません。
『ロミオとジュリエット』を、個人の中の葛藤と見る事も出来ます。
相反する欲動や理念を調停する分子がそのために死ぬのは、当然と言えましょう。
『曽根崎心中』にせよ、それが非常に固定的な社会全体に、相補的な潤いを与えたと言う事があります。これを個人の意識になぞらえると、心の中のつっかえを、少し犠牲を払って(旅行に行ったり宴会をしたりで、)解消すると良いと言う、温厚な判断も出来ます。
これらの事も、「天より隕つるあり」かも知れません。
だからそれは、あなたの関係のない所で、世の中が吉なのであって、多くの場合、あなたはその結果を見る事も出来ないでしょう。
鮭は、数万匹の中に数匹、ぜんぜん違う川へ卵を産みに行くと聞いていますが、それは何千年、何万年かに一度の大地震や気候の変動で、母川が消滅してしまった場合のために、種を保存するシステムなのだと言います。天から隕ちて吉と言うのは、ちょうどこの鮭のようなものでしょう。
その場合、吉凶を知りたい人は、「今の狂おしい、憧れのようなこの欲動は、何に対してか?」と再占して下さい。
凶なら単に、自己破壊の願望。
吉なら今の自己の全てを犠牲にしてでも成し遂げるべきと、あなたが思っているもの。それは、あなたが生れて来た理由のようなものです。心当たりがなければ『誤占』です。
公平を期するために、もう一つの解釈を述べておきます。
本田先生の「隠忍していれば、思わぬ福がやって来ることもあろう。」と言うのは、そう言った誘惑に動じぬ努力は、恒常的に続けて行かねばならぬもので、それによって『乾』本来の、健やかな結果、果報が始めて得られる ……… と言う意味でしょう。ちょっとでも不正を受け容れてしまったら、なしくずしにガタガタに成ってしまいます。この場合、幼稚と思えるほどのマジメさが、良いのです。
本田先生が「こともあろう。」と不確定な表現を使ったのは、乾の営み、それ自体が理想的な果報だからでしょう。すでに吉を得ている。これを継続していると、その善根の蓄積で、本人には意外な、当然の福がある。乾天の営みの副次的な産物が、隕石の大光球である ……… と、私は思います。それならば、王夫之の「それが天より隕つるありだ」と言う言葉が、一応通らないでもありません。
ここで興味深い事を申し上げましょう。
山折先生の、「宮沢賢治作品のカギは『風』」、と言う意見に関して、
「僕は『猫』だと思っていた。」と言った小学生がいたのです。
そして、それを聞いた河合隼雄先生が、「私は宮沢賢治の作品における猫の事をずっと考えていた」と、言っておられるのです。 出
いやはや、大変な小学生がいるものですね。相当の賢治ファンでも、いきなり、
「賢治作品のカギは何か?」
と聞かれて、具体的に即答できる人は、あまりおられないと思います。私など、足許にも及びません。
「子供と言うものは、教えたらいくらでも伸びるものだなあ。」
そう、つくづく思います。この子はこの才能で将来、お金持ちに成ったり、有名に成ったりするのでしょうか? もちろん、そうかも知れません。
しかしもっと大切で確かな事は、この子は私なんぞよりずっと、自分の人生をよく味わう事が出来ると言う事です。それはちょうど、釈尊がたとえたように、
「舌はスープの味を知り、スプーンはそれを知らない」
ようなもので、これこそが人として生れてきて、子に託し、教え伝えるべき、唯一の事だと思います。他の全ては、「人生を味わうための道具」と言えましょう。
さて、河合隼雄先生は、『猫と風』を、「この両者はあんがい似ているようだ。」と注意を呼びかけ、人が自分を知るための、大きな手がかりとしています。
易経流に言えば、兌と巽、沢と風、娘と女 ……… 案外ではなく、最初から非常に似たものとして扱っています。
ユング流に言えば、猫(アニマ、コレー、娘)と女(デメテル、母)と成ります。
更に言えば、隕石はどこに落ちるのでしょう? 『地』 坤(
そしてあの抑止力は、グレートマザーの抑止力ではなかったか?
男が女を見初(みそ)めて、風を感じ、地に隕ちる。
この爻は、ただそれだけなのかも知れません。
しかしこれは、男の一生を端的に述べたものでもあります。
『天』と言う意識の神の座は、意識の最深部です。
そこから、意識にとってはまったく予想外に、隕石が大光球と成って落ちて来る事がある ………
ところがその引き金は、風。実にしばしば異性である ………
だからこの卦は、恋愛の卦、「めぐりあい」と成る ………
この点、『性の一元論』で無意識の世界に斬り込んで行ったフロイトを、私はもう一度見直す必要がありそうです。
これがこの爻の、全貌です。
またしてもこれを書いている時に見たのですが、『ハウルの動く城』でも、幼少期のハウルが、流れ星の降る丘に立っていましたね。ついでにハウルの動く城。
こう言う『謎解き』が、易経のもう一つの楽しみです。
しかし私は、新しく疑問を提起して終わりたいと思います。
原典一行目の、『瓜』と言うのは、とりもなおさず帝王、五爻の事ではないか?
六爻と四爻の陽に杞(バスケット)のように守られた、五爻の事ではないか?
『あらゆる存在は、相補的にまったく正反対のものを内包している。』と言うのは、易経だけでなく、東洋的な思想のすべてを貫いている大原則です。
易の384爻の中で、もっとも陽らしい陽は、乾為天の五爻です。
ならばその中に、もっとも陰らしい陰を内包している筈です。
これは案外大切なもので、
瓜(アニマ、自分の中の女性性)を失った王は、独裁者と成ってしまうのではないか?
それも隕ちる事ではないか?
麻原やムネオ、ホリエモンなどは、良い例ではないのか?
帝国の王と花売り娘とは、確かに富士と月見草のようで、最初から相通ずるものがあります。この関係を、断ってはいけない。たまに隕石で、連絡しておく必要があるのではないか?
それも、「天より隕つる事あり」ではないか?
そんな風にも考えてしまいます。
バスケットにはサンドイッチ以外にも、猫を入れる事がありますからね。