『森は生きている』
(女王の孤独)



 多くの人の話題に上る『森は生きている』。 どんな話かと、眠る前に読んでみました。途中で「あれかな?」と気付く。NHKの人形劇で断片的に見た、

   ころがれ、ころがれ、指輪よ
   春のげんかん口へ
   夏の軒端
   秋のたかどの
   そして、冬のじゅうたんの上を
   新しい年のたきびをさして!
 (p86)

 と言う呪文が出てくるお話し。あれは、一度通して見たかったんだ。ちょうどいい ………

 舞台はロシアか東ヨーロッパの冬。(そのあたりの民話がもとだそうです。)
 ヒロインはみなしごの少女。
 意地悪な、まま母と義姉あね
 1月から12月までの、十二人の精霊たち。
 そして傲慢な女王が事件を起こす。大晦日おおみそかの日に新年、つまり明日までにマツユキソウを取って来いと言うのだ。もちろんこの難題は、主人公のまま娘に回ってくる ………

 昔話の典型、と思って読んでいって、最初に「おやっ?」と思ったのは、女王の次のセリフ。

 「わたくし、マツユキソウをほんとに見たことは、一度もないのよ。」(p42)

 待雪草、スノードロップの方が、通りがいいかも知れませんね。うつむいて咲いている、清楚な白い花。その姿が何とも可愛らしく人気ですが、ありふれた雑草です。
 「それを見たことがない?」
 馬車から眺めたり、花瓶に添えられているのは見た事があるでしょうが、ほんとに見た事はない。そして、
 「ほかの花はどんなのもほしくない。」(p114)
 とさえ言います。
 これは単に子供らしいわがままか、だとしても、子供はなんだって、そんなわがままを言うのでしょう?
 「このお話、深いかも ………」

 ここでそれぞれの登場人物を、娘の人格の一部として考えてみます。優れた作品には、すべてそのような見方が出来ます。それは作家がリクツをこねながら書いているからでは決してなく、人は周囲を自分の人格の一部としてしか見る事が出来ないからです。だから愛したり憎んだりも出来、優れた作家はそれをそのまま表現するだけです。


 女王は十四歳。(p32) まま娘よりも年下で、王と王妃が死んでしまい、それで女王に成ったのです。そしてそれを娘は「かわいそうね。」(p22) と思います。これは娘が優しい事よりも、これで女王との道が開けた。通じ合ったと言う事の方が大事でしょう。
 共にみなしごで、少女。二人とも現在の耐えがたい状況にはまり込んでしまっていて、「あり得ない花」でも見つけないと、先へ進めません。
 もしかしたら、女王と娘の同一性を暗に示していたのかも知れません。二人は互いの影のように、まったくの対極をなしています。

 女王の言動には、少々異常な所があります。
 「釈放せよ」より「死刑にせよ」の方が書く文字が少ないからと言って、囚人を死刑にするなど(p36)、望み通りに成らなければ、すぐに死刑をほのめかします。
 ほんの少しの面倒や難点で、関係の全部を断ってしまうのです。
 マツユキソウが見つからないので、元旦に成っても、
 「それでは今日は、十二月の三十二日ということになります。」(p105) と、言い張ります。
 だいたい、冬のさなかにマツユキソウを取って来いと言うこと自体、むちゃくちゃです。

 ところがまるっきりデタラメかと思えば、そうでもない。
 「四月一日ですからね。(中略) マツユキソウが咲いたからよ。」(p117)
 などと、ちゃんと解っているのです。
 また、マツユキソウを金のケースではなく、
 「水のはいったコップに入れたほうがいいわ。」(p115)
 と言うのですから、単に珍しいものが欲しかった訳ではなく、それがどんなものかも、よく知っているのです。

 マツユキソウに関わる女王の一連の問答は、まるで「マツユキソウが見つからないと、私は新しく生まれ変わる事は出来ない。今の私が永遠に続く。」と言っているようです。そしてそれは、ヒロインの娘にしても、同じ事でした。

 やたら怒りっぽかったり、傲慢やわがままを言うのは、その人自身が相当に追いつめられている事が多い ……… 女王は孤独なんだ。これは、悪い女王様が反省して良い子に成ると言うようなお話ではないようだ ………


 物語の最初にリス、ウサギ、カラスが出て来て、雪の朝で遊ぶ。
 これも、ムダ話ではありませんでした。おそらく彼女の心も、雪原をどこまでも跳ねて行ったり、木に駆け上がってはうろで暖かく過ごしたりしていたのでしょう。娘は動物達のやりとりを聞いて笑い転ます。
 それを老兵士に、「あたしたちのことばでよ。」(p18) と告げます。人間の意識を支える動物的な心。それと娘は話が出来るのです。
 この老兵士は女王に仕えていて、娘とも親しく、二人の男性面のようにも見えます。

 継母と義姉は、どんな幸運にも満足できず、凶事にはもちろん怒って喚き散らし、いちばん始末に負えない事には、平素にこそ我慢がなりません。いつも嫉妬と羨望で心を真っ暗な怒りに満たし、娘につらく当たります。

 影と言えば、娘の後をつけて行く義姉を見たリスは、
 「そうだ、でもあれはかげだったかもしれないね。」(p154)
 と言います。そして義姉は執念深く、娘が神に会う邪魔をするのです。おまけにこの義姉は、気配を感じるとすぐ藪の中へ姿を隠すし、
 「人の足あとの上を歩いている。足あとの中へ足あとをつけて。」(p154)
 なんと恐ろしい! これではいくら立ち止まって振り返っても、自分の足跡とまったく区別がつきません! 私は影の表現でこれほど恐ろしい文章を読んだのは、初めてです。何とかしてこの義姉を、娘から分け離してしまわないといけませんね。

 この誰の心の中にもある人間の敵は、神と会ってからは適切な姿、犬にされてしまい、これからは娘の番をし、家や庭を守る事になります。おもしろい事に義姉は、
 「犬の毛皮でもいいわ、」(p198)
 と、自分から望むのです。あんまり寒かったからです。
 物事があるべき姿や場所に収まり戻る時には、いつもこんなものでしょうか?

 そして全ての中心には、十二の月たちに囲まれた、焚火の焔があります。
 そこに行くにはそれを小さくしたような、暖かく光る円い指輪。

 私がこれらの事に気が付いたのは、物語もいよいよ最後にさしかかった場面、
 「でも、なんてあの子にたのんだらいいの。あたしはまだ一度も、人にものをたのんだことがないわ。(後略)」(p217) そして娘からシューバ(毛皮のオーバー)をもらった女王が、
 「そう、ありがとう。そのシューバのかわりに、あんたはわたくしから十二枚 ………」(p219)
 と、つい言いかける所を読んだ時です。それまで私は「眠る前の他愛ない、なごみ系の童話」としてのみ、読んでいたのです。「はっ」と気がついたら、上で書いたような事が、一時につらつらと思い出されました。
 それはすぐ前日のETV特集、『星の王子様と私』(07-06-10放送)で聞いたセリフが、まだ耳に残っていたからです。

 「王子が最初に会ったのは、命令する事でしか人間関係を結べない王様でした。」

 ドキリとしました。と言うのも私は、ちょうどそんな人を知っていたからです。そして、そんな人が自分の影である事が、だんだん判って来た所だったからです。

 「そう言えば俺も、人にものを頼むのが苦手だぞ。」

 何か頼むより、全部自分でやってしまおうとします。人から頼まれたら気前よくやりますが、自分は人に頼めないのです。日本にはこう言う奴は、結構多いと思います。
 ちょうど今日もお年寄りに道を教えてあげただけなのに、ナイロンパックに入った「せんべい二枚」、頂きました。「こんなもの、よろしいのに。」と言っても、「いやいや、どうぞどうぞ。」と私の手にねじ込みます。そのやり取りは到底、「せんべい」の価格と釣り合うものではありませんでした。
 これはトリプル共時性かと思って、ありがたく頂戴いたしました。(笑)
 「申し訳ない」
 と言う気持ちですね。これも、対等の関係ではありません。対等で親しい関係なら、頼んだり頼まれたりが楽しくて、何でもスムーズに運ぶはずです。
 「命令する事でしか関係を結べない。」と言うのは多分、これと同じ気持ちの、正反対の行き方です。

私的な類似の例


 私にとって今はまだ、影のいる場所が遠くに見えただけです。
 経験的に言うと、「解った」と頭で理解できたと思った時が、非常に危ない。影はチャンスと見て、容赦なくこちらの油断につけこんできます。気がついたら手が朱に染まっていると言う事があります。
 しかし幸い、このお話にはまだまだたくさんの事が語られているようです。道の遠さを嘆いていたら、叱られると言うものでしょう。小さな女の子でさえ、雪の中をあれほど歩いたのですから。

 物語も最後の方で、博士が言います。
 「わすれてこそ −−− 思いだすもので。」(p221)
 格言や数学の公式を覚えて、何でもそれに当てはめてやろうと待ち構えていても、いったん忘れて記憶の倉庫にしまっておかないと、他でも使えるように思い出す事は出来ません。
 だから私もこのお話を、いったん忘れる事にしましょう。けれども、消えてしまう訳ではありません。たとえそれと気づかぬにしても、何度も何度も思い出すに違いありません。
 十二の月たちが歌い、最後もしめくくった歌のように、読んだ人にとってはこのお話は、あの時の焚火と同様です。

   燃えろ、燃えろ、あかるく燃えろ

   消えないように!





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