他の作品での猫の使い方

 賢治が作品に猫を多用したのは、猫好きであった可能性をかなり直接的に示唆しています。普通の作家だったら、これだけで間違いなく「猫好き決定」です。
 「 猫に関した文章を書く 」と言うのは、「 猫と遊ぶ事 」に近い心情と思います。
 書いているあいだ中、「 山猫のにゃあとした顔 」を、見ていないといけないからです。この表現自体、猫嫌いに思いつくかどうか、私には疑問です。( 『どんぐりと山猫』の一節。)

 また、『 セロ弾きのゴーシュ 』では、ゴーシュが猫のザラザラした舌でマッチをするという、現代のギャグ漫画家でもなかなか発想し得ない場面がありますが、これは猫に手から餌をやるなどして、一度は舐められた経験のある高い可能性を示唆しています。

 『どんぐりと山猫』は、裁判とか判決をするのですから、「 山の犬神さま 」から手紙をもらった方が、いいですね。しかしそれでは恐くて、一郎君は呼び出しに応じないかも知れません。しかも、どんぐりの裁判です。最初から緊張感を欠いており、閉じた目と口の端が、いつも「 にゃあと 」笑っている猫を持って来るのは、まったく適切です。しかしそんな事は、誰も思いつきません。

 『 猫の事務所 』も、普通の作家なら、狸なり狐なりでやるのではないでしょうか? と言うのも、あのお話は「人間の中の犬の性質」、つまり、集団として生きる事を、最初から性質の半分として義務づけられている人間の悲惨について書いたもので、まずもって猫でやる事など、絶対に思いつく筈がないからです。
 ところがこれを猫でやる事で、いっぺんに話ぜんぶが面白くなり、楽しく成り、かえって泣け、長く心に残り、ぜんぜん別なものに成ります。
 歌舞伎でも宝塚でも、女形や男役を本当の女優、男優にやらせたら、醒めてしまいますよね、きっと。
 けれども「 これはお芝居なのだ。」と言う事が最初から判っているので、人形劇のように、かえって簡単にその世界に入れる、そのままを受け取れるのです。
 この場合の猫の使い方は、例えばナチスドイツの記録映画を全員に女装させてやるようなもので、『 単なる異化 +α』の効果があります。
 あるいはまた『 OL進化論 』のように、かなり辛辣な事を言っても、可愛らしく好咸の持てる「 絵の力 」で愉快に読み飛ばす事が出来、読後感もまったく爽やかで、素直に教訓として受け取れるのにも似ていましょう。

 『 猫の事務所 』をもし猿でやったら、相当に腹立たしいものと成るでしょうね。( 笑 )

 とにかく異世界への扉が開かれる時に、賢治は風と猫を使っています。
 いや、自然と現れて来るのでしょう。


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