網、皮膚感覚について
また、網( あみ )とは何かをもれなく遮断するもののイメージです。
芳一も猫も、自分の体に網を張りました。
そう言えば、『毛皮』が強調されていますね。ひところ文学評でよく使われた、『皮膚感覚』が、理解の切り口に成るかも知れません。( そして毛皮は、皮膚よりも更に官能的 感覚寄りです。)
それなら「 苦笑ひ 」と言うのも、解るような気がします。( 本笑 )
( 『皮膚感覚』とは、誰にも定義できない便利なコトバで、まったく曖昧ですが、すべての指標や前提だったりします。普段はノミに噛まれた時にしか使われませんが、感情や感性の底にある、実はカミサマのようなもの。外界と隔てた皮一枚が、です。実に、困った事です。これも、理系の人達に任せましょうか。
たとえば目で見、耳で聞くのが一番確かな事ですが、現実と映像との差は、あまり変わった所はありません。目の前で爆発が起こったとしても、見ている訳ですから、自分はそこから離れています。しかし実際に爆風や飛散した破片を触覚で感じたら、文字通り『身に迫った』事に成ります。皮膚に感じたらその世界は、いよいよ自分に関係のある、現実の事に成ります。
だから文学では、内界と外界を遮るこの一枚は、感覚的な、あの世との境として使われて来たようです。( 皮膚感覚には、『 猿の手 』の、「 ぐねりっ 」なども含みます。 )
こちらの世界とアチラの世界の間には、目に見えるようで見えない、境界があるようです。さいわいな事です。
いや、透かしてなら見えるけど、実際には行ってはいけない立入禁止の看板つきの、金網の向こう側なのでしょうか?
自分の体に網を張るとは、どんな事があっても自我の統一を失わぬための、意識的な努力なのでしょう。つまり、
たとえどんな時にでも、絶対に自分自身だけは見失わないと言う、固い決意です。
その網はマジックミラーのように、芳一の側からは見えるけれども、悪霊の側からは芳一を隠す。
意識的な努力と言う網を張ったら、こちらからは自分のおぞましい欲動や衝動 ……… あるいは非常な幸運に対する相補的な、時には身体や運命のレベルでの自己破壊の衝動が、……… 自分を噛み裂こうとして歩き回り、捜し回っているのが解る。
しかし、息を詰めてそれに注意している間は、襲われる事はない。そうすると悪霊は去って行くし、次に現われた時にも身構える事が出来る。かつてやり過ごしたという自信も味方してくれる。
こう考えると、小さい頃『耳なし芳一』を読ませてもらったおかげで、私は随分と助けられているようです。「どう助けられているか、わからない。」これが、肝心だと思います。
とにかく「こわい こわい」がやって来るのが感じられ、そのあと、酷い事に成ると聞いていた。それが『抑止力』に成ってくれたのです。