『鉄腕アトム』について

 例えば『アトム』には、その底流に『二重の父性』と言うテーマがある事に、お気づきだったでしょうか?
 アトムの父親は、お茶の水博士ですね。しかし、アトムを作ったのは、天馬博士と言う、おそろしいほどの天才科学者です。
 天馬博士が亡き息子を模して作ったのが、アトムです。
 この点、アトムは最初から愛されてはいない。もう一人のお父さんは、子供を「突き放して」います。しかも、その姿を容易には現さない。
 もう一人のお父さんに会うためには、子供にとってはしばしば、死を覚悟するような冒険・試練を、幾度もくぐり抜けねばならないようです。(たとえば、おつかいに行ったり、ザリガニにさわったり、飛び込み台から水の中に飛び込んだりですね ………)
 また「ロボット」は、いたる所で人間あつかいされないので、子供と同じです。

 我々のお父さんは、優しく、理解力に富み、まるで、お茶の水博士のようです。しかし、一家を支える者として、子供にとってはゾッとするような、『男』としての一面を覗かせる事があります。父性も母性同様、二重性を持っています。
 それは、誰にでもお父さんとお母さんがいるように、お爺さんとお婆さんがいる事も当たり前であったと、我々に気付かせてくれます。
 実際、『桃太郎』や『かくや姫』などは、そのお話があまりに普遍的なので、両親と言う直接的なものを必要とせず、誰かから産み出される事もなく、祖父母から文字通り普遍的に『発見』されます。ちょうど我々が、自分自身を発見するように、です。
 イエスの処女生誕も、おそらくはこの線でしょう。

 子供は、お茶の水博士だけが「お父さん」だったら、どんなに良いかと思っています。まったく、安定した道です。
 しかし、それでは成長できません。お茶の水博士も知らない奇跡の能力を、自分は持っている。これは、子供がこれから少年として生きていく上で、必要な能力です。
 でも、どうやらそれは、お茶の水博士の奥にいる、「もう一人のお父さん」の方の血らしい ……… ときおり垣間見る、男としての「お父さん」のひながたが、自分の中にあるらしいのです。

 これは『上位者』としての父で、上位者が自分の中になければ、欲望や衝動を制御したり、方向づけて成長したりする事は困難です。何より、意識の均衡を保つ事ができません。
 しばしば誤解されがちな林道義教授の『父性』と言う表現は、おそらくこの辺りを指しているのだと思います。二重の父性は、男の子にとって、本当に意識の深い部分、足許、足場とも言えます。

 しかし ………
 「スーパーロボットを主人公にした、子供向けの漫画を書こう。」
 と考えた時、いったい誰がこの設定を容易に思いつく事が出来るでしょう?

 03年版の『アトム』では、最終回で、アトムは天馬博士を抱きしめて、言います。「お父さん」と。
 子供は、もう一人のお父さんと和解し、自分の中に受け入れます。
 アトムを見た子供は、少年としての一歩を踏み出すのではないでしょうか?

 この調子でもう一本、『リボンの騎士』をやってみましょう。

『エッセイの入り口』 >ショウペンハウエルに似た人1