参考文


 使っている単語、題材を、ピックアップして行きました。植物なら植物でまとめると言う手もありますが、出てくる語に流れがあるかも知れないと、あえてまとめずに置きましたが、途中で挫折し、正確に並んではいません。
 こう言う事は最低数ヶ月、できたら数年、専心しないと味のある斬りこみは出来ないのですが、実にインスタントで申し訳ない。

 さて、句で使われた単語です。それにしてもテキスト文書から編集→ 検索で、その言葉が何度使われているか、すぐ調べられるのは、魅力ですね。
 「この作家はこの語をよく使っているな。」と思ったら、数えてみると案外少なく、自分の思い込みだったり、自分が軽視していた語を案外多く使っており、重要な概念だったり、その反対に、一番大切なコトバを滅多に使わず、別の表現で、隠すようにさりげなく使っていて、数える事が無意味だったり、まったくさまざまです。
 機械の力で文学作品を判断などできませんが、見つけたキーワードをテキストからモレなく検索できるのは、奇跡のような事です。基本的に、ひらがなで使っている語は、ひらがなで表記しました。


 鳥(とり。からす かと思ったら、からすは『鴉』の文字で、9回使っている。鳥は水鳥、百舌鳥、小鳥と合わせて12回使っている。)松・風・鐘・花・雪・木の葉・蝉・水・月・風景・とんぼ・こおろぎ・芽・水鳥・川・烏瓜・すすき・山・さざんか・星・岩・湧水・雲・白髪・雑草・故郷・あざみ・落ち葉・水音・笠・飯・影・捨炭(ほた)山・冬木・後姿・しぐれ(13回使っている。)・旅・爪・朝凪・建物・石階・樹・道・どくだみの芽・蕨(わらび)・草・箸・土・秋風・石・たんぽぽ・朝焼・大根・ゆず・草の実(8回)・草の芽(5回)茶の花・竹ぎれ・水仙の芽・庵・琵琶の花・椿・ぺんぺん草・すずめ・ご飯・てふてふ・虫・きんぽうげ・あざみ・石ころ・竹の子・鎌・きつつき・ふくろう・さくらんぼ・萩・蟻・みょうが・法衣・糸瓜・みのむし・いちじく・灯・春風・鉢(はち)・馬・青田・朝露・ほととぎす・炎天・お地蔵さま・枯れ木・蚊帳・彼岸花・モズ・お日さま・蝿・酔い・夕立・はだか(5回)・郵便・熟柿・柿の葉・見送り・月夜・空・いばらの実・屋根の雪・玉葱(たまねぎ)・みぞれ・冬夜・枯木・枯れている・足跡・酒・遠山-別れ・汽車・楢の葉・雑炊・蜂・犬・障子・とかげ・湯・梅雨晴れ・蜘蛛・青空・つくつくほうし・百合・豆腐・秋風・寝床・萱の穂・柳・かぼちゃ・山蟹・青田・梅もどき・目白・頬白・草わらじ・うぐいす・さくら・楓・燕・苅田・とうがらし・梅ぼし・茶店・空瓶・菊・寝顔・舟・みそさざい・藪・こずえ・白い花(三度、良い使い方をしている。)・煙突・山羊・きりぎりす・風鈴・芋の葉・電信棒・笹・春潮・ましろなる鶏・枯葦・麦の穂・野宿・かっこう・からまつ・夢・おべんたう・あらなみ・砂丘・礎石(そせき)・御仏・家・ビル・つる草・りんどう・をみなへし・佃煮・曼珠沙華(ひがんばな)・あたたかい白い飯・かまきり・寒鮒・火吹竹・お正月・カレンダー・バケツ・日の丸・焚火・鍋・米・千人針・爆撃・案山子(かかし)・雷・石蕗・うどん-母・咳・初孫・赤蛙・げんのしょうこ・穂風・土蔵・山椒・貝・ほたる・三ツ葉の花・半搗米・世帯・机上一りん・おたまじゃくし・葱坊主・豌豆畑・花ぐもり・ピアノ・がま・枯田・炎天のレール・たばこ・刑務所 草の種………


 どうでしょう。昔から俳句に使われていた題材を、非常に正統的に使っています。「うどん-母」 などとあるのは、母を思う気持を表すのに、うどんを使った(あるいは、うどんを見て母を想った)と言う事です。


 反対に、今度は死や哀しみにまつわる言葉をピックアップします。

 焼場・墓(11回)・荷物・墓がならんでそこまで波がおしよせて・雨だれの音も年とつた・花いばら・草-死人・病めば鶲(ひたき。鳥の一種。火焼とも書く。)がそこらまで・よびかけられてふりかへつたが落葉林・死人を焼くところ-草・重荷・道-まっすぐ・冬-歯が抜ける・蝶はうたへない・八ツ手花咲く-(戦死者に関して)-白い函(はこ)・唐辛まつ-死・葉のない木-死・うまれた家はあとかたもないほうたる・金魚-死・蓮の花・灰………


 私は山頭火は、死に対する強い感情をともなったコンプレックス(観念群)を持っていると思っていました。
 それは確かにありました。死-火・草(土)のように、死を実感として感じていた形跡もあります。

 そしてこれはマンガ『まっすぐな道で さみしい』を読むまで知りませんでしたが、
 『山頭火とは、死体を焼く炎の事!』
 お、おぞましいっ。知っている人でも、あまり口に出せないでしょうね。私でさえちょっと、書く事がはばかられました。そして思い出される事は、繰り返し使われる、
 『死-炎』
 言う図式です。これは、「自分の体など、燃えてしまえ!」と言う、酷い自虐的な心。まったく炎ほど、激しい感情を表す言葉がありましょうか? 「地獄酒」とは、これも、いわしげ孝先生の表現でしょうか? まったく、ゾッとさせられます。
 そして、「炎が来る、私は燃えてしまう!」と言う、絶叫が聞こえて来そうな、たまらない恐怖心です。

 よく作家や芸術家の論評に、「彼は幼少から死を感じるほどに強い感受性を持っており、」などとありますが、これは、どう言う事でしょう?

 たとえばガンを告知されると、非常にショックを受けます。考えたら、おかしいですね。誰でも自分が死ぬ事は知っているのに、「あと数ヶ月」と日を区切られるだけで、それほどショックなのでしょうか?

 これはおそらく、「死を実感として受け止める」からだと思います。
 有名な話なのでご存知の方も多いでしょうが、ある禅僧が小僧さんを連れて、医者に行った。そしてガンを告知された。そのお医者さんは、この僧侶のファンで、尊敬もしていましたので、「この人には告知した方が良い。」そう考えたのだと言います。ところが、
 「あわわわわ………」
 と成ってしまい、帰りは小僧さんに支えられて帰って行った。

 また、ある告知主義のお医者さんが、ガンにかかってしまった。その人の深い信念と考えを知っている同僚達は、当然それを告知しました。その医師は実際、何人もの患者を死と向き合わせ、立派に死を受け入れさせたと言います。真面目で、熱心な方です。こんな医師は、滅多にいないでしょう。
 ところが、非常に取り乱してしまった。

 意外ですね。お坊さんは普段、『生死一如』とか言って、また、実際にそう考えてもいるし、死んだ人のために毎日のようにお経を唱え、遺族にも色々お話をするはずです。
 医師も、日常から人の死を身近に感じている。当然、自分が死ぬ事も、普通の人よりずっと多く考えるはずで、いわば、ずいぶん練習をして、準備は出来ていそうなものです。
 禅僧の話は、私にはちょっとショックでした。「この禅僧は、修行が出来ていなかった。」と言うのも酷なように思います。また、宗教にも特別な考えにも無縁な人が、立派に告知を受け止めたりすると言います。
 「人が噛まれているのをいくら見ても、自分が噛まれた時の練習にはならないのか。」と、思いますですねえ。(笑)

 上の話は、「ガンは告知すべきではない。」と言うテーマでよく語られるそうですが、つまりは、

 「いったい人間は、自分の死を実感として捉えて、正常でいられるか?」
 と言う事ですね。自分が死ぬ事を、実感として知っていて、まともでいられるか? そして山頭火のような感受性の強い芸術家は、

 「まさに少年期からずっと、ガンを告知されていたようなものだったのではないか?」
 と思うのです。

 マンガの題名にもなった『まっすぐな道で さみしい』も、大まかには三通りの解釈が出来るでしょう。

  1.  まず、実際に平坦な道でさみしい。周りの景色は変わっているが、同じ所を歩いているような気がする。これも、そうかも知れません。

  2.  曲がりくねっている事を、逆説的に「まっすぐ」と表現した。漢文の先生が、
     「いいか、詩人は反対の事ばかり言う。詩人が『春』ったら、さみしいって事で、『知らず』ったら、よく知っているって事だ。」と言っていました。(笑)
     これも、そうかも知れませんね。曲がりくねった道から曲がった所を除くと、まっすぐで「何にもない」事に気付く。これは、コワイ!

  3.  そして、うがった見方をすれば、「人間は死に向かって投げ出された存在である。」
     ハイデガーの言葉ですね。「それがどうした。」と思っていましたが、ハイデガーも死を実感として感じていた人だったのかも ……… 考えてみれば、釈尊の人生でも、
     「生誕→ 出家→ 成道→ 涅槃」  と、えらく「まっすぐ」ですね。まあ、『成道』『涅槃』と言うのは、ただ事ではない。別格ですが。
     「書いた、愛した、生きた」と墓碑に刻ませたのは、スタンダールでしたか。(ろくに読んではいませんが、)「まっすぐ」ですね。
     普通、「生まれた→ 子供を生み育てた→ 死んだ」くらいでしょうか。
     これが私となると、独りモンですんで、「生まれた→ 働いた→ 死んだ。」いや、ちゃんと生きているか? と問われたら、心もとないので、
     「生まれた→ 死んだ」
     くらいかも、知れませんね。

     そう考えると、自分の誕生から死までが、「ストーン」と一直線に感じられる時がある。何の引っ掛かりもない。
     私でさえ、たまにそう感じる。これには逃げ場のない、独特のさみしさがある。
     誰にも、何にも、すがれない。途方もない虚無と、相対しているような気持になる。

     いや、この句の解釈は、いわしげ孝先生の解釈の方が、ずっと本当らしく思えます。「なるほど!」の解釈です。

     こうやって、私が自嘲的に語れるのは、明らかに思い上がっているからです。死や人生を客観的な口ぶりで語ったら、正面から向き合う事を、避けられると思っているのでしょう。乗り越えたように、感じるのでしょう。だってそれを実感して、耐えられますか?
     「まっすぐな道でさみしい」と言う句は、それを本当にした山頭火が、そのままを詠んだ句。だから、意味は解りませんが、なんとなく、心に残るのではないか ………
     

     まあ、どれが正解と言う訳でもなく、文学は、「その時の お好みしだいで つめる花」これは、想いが句になる寸前を詠んだ自由律俳句が、特に得意とする所でしょう。


 さて、サゲに入りましょう。
 墓を詠んだ句も11句あります。墓の句は、はっきり寂しく危ういのは、
    墓がならんでそこまで波がおしよせて
 の一首のみ。ちょっと寂しいのが二首、苛烈なものが一つ。
 他は、むしろ暖かいものが多いようです。
    椿ひらいて墓がある
    墓場あたたかうしててふてふ
 など、美も情もこもった内容です。「かえって迫力がある。鋭い寂しさを表現している。」と言う人もあるかも知れませんが、うーん、私には何とも言えません。 ……… むしろ墓を詠みながら、墓はすでにコワイものではなくなったと言う感じがします。

 確かに、少年期から死を意識させられたのは事実ですが、山頭火が自分でそれに気づかぬはずはない。句が「死」に振り回された形跡は、私には見つけられませんでした。それを容認した節もありますが、句は彼の聖域よりどころ だったように思えます。
 (いや、これも凡人の想い。彼はただ、詠みたいように詠んだだけというのが、一番の正解でしょう。)

 もしかしたら山頭火は、句でちゃんと自分のお墓を建てて、お参りも済ませていたかも知れませんね。