発明品と発明家の個性について


 世に作者と作品の心理分析を行ったものは、多くある。例えば、『昔話』に対する分析などがそうで、欧米の方では新進の作家の作品を、いちいち分析したものがたくさんあるそうである。(作家としては、たまりませんわな。こんな事された日には。)
 しかし、発明家と発明品の関係を分析心理学で見たものは、まだ読んだ事がない。
 私はこれは、やるべきであると考える。あなたも小さい頃、野口英世の生い立ちと、彼の研究を聞いて、無関係であると思ったろうか?
 「良い発明家を生むための研究」ではない。そう言う事もあるだろうが、発明も他のあらゆる創作と同様、畢竟、『問題の解決』であり、『意識の引っ掛かりの解消』である。
 ある人々においては、それが発明品や創作品と成って、我々の便利や憩いと成る。

 しかし、そう言った人々以上に、我々凡人にとってこそ、これは大切な事であると思う。我々は彼らのように簡単に、ものを創ったり出来ないから、その分、学ばねば成らず、生きると言うのは明らかに、相当に必死の、創作作業だからである。

 人生創作の過程が我々のこの日々の生活に、どのようにあるのかは、なかなか解らないが、人生も一つの楽曲や小説のようで、我々も、ある一つのテーマを何年も繰り返して演奏したり、軽く踏んだステップが、フィナーレの爆発を誘導したり、それらすべてを抱えて、静かに最初の一行に戻ったりする。(← これはショウペンハウアーの表現だったような気がする。)

 発明・創作とは、想い・イメージが、現実に表現されたものだろう。そして人生がその人の創作物だと言うなら、発明家、創作者をよく産み出す教育は、他の人々にとっても、良い教育だったと言えるだろう。
 豊なイメージ、たとえば童謡で育った子は、たいていその事に、感謝している。

 さて、早川徳次の発明品である。

 ……… ベルトのバックルもシャープペンも、単体では男性原理(アニムス)に属する物なので、父性を追い求めたとも考えられる。そしてどちらも、「二つのものを結びつけ、固定させる発明品」だ。『結合』が、テーマである。

 また、ベルトはまったくウロボロスではないだろうか?
 (ウロボロスとは自分の尾をくわえる蛇。玄武や蟹座のマーク、易の太陰大極図、浦島太郎の亀などの事。古代から女性性、母性の中核。子宮・永遠性の象徴、シンボルとして使われる。)

 では彼にとって発明とは、世界を渇望する事か? それなら彼はどうしても、徳尾錠とシャープペンを発明しなければならなかったのではないだろうか? 私には、そう思えてならない。



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