母性と父性の定義


 母性の定義を見ようと思って、岩波の 『 心理学小事典 』( 1993年版 ) を見ると、ほとんど載っていない。
 おやと思い、ネットで検索すると、やはり載っていない。『 発掘あるある大辞典 』 で、大脳生理学の方からの検証が紹介されているのを読んて、感心したりする。( 2004-06-27検索結果。04'08月には、ぞくぞく掲載され始めていた。以下の文は2019'1月校正 )
 「 という事は、これは定義してはいけないものなのか ……… 」
 つまり、定義して固定化してしまうと、我々が母性や父性を身につける事の妨げになると ………  まあ、色々あるのでしょうが、ここではこのページで私が使った母性と父性の意味を、民間信仰的に述べておきます。

 母性とは、対象や自分自身を安楽で良好な状態に保とうとする性質。
 内側を安立する感性と感情の力。
 母性を確立するとは、それを自分の中に持つ事。

 父性とは、他者と自分の欲動を制御し、うまく道筋をつける性質。
 外へと向かう認識と意志の力。
 父性を確立するとは、それを自分自身の中に持つ事。

 母性がなければ、危なっかしくてかないません。まったく無防備で、ちょっとの危機で、すぐに死んでしまいます。もちろん、他者が死ぬのも、当たり前です。
 父性がなければ、目をつむって全力疾走するようなもので、自分の力で自分を殺してしまいます。もちろん他者も、殺します。

 いったい我々は、どうやって母性と父性を身につけたのでしょうか?
 もちろん私などは到底、ちゃんと身につけているとは言いがたいし、誰しも母性と父性は死ぬまで成長させて行かなければならないものと思いますが、さて、その種はどうやって芽吹いたのでしょう?
 これは案外、驚くほど単純で当たり前のもののようで、我々は、
 父親をまねる事で父性を、
 母親をまねる事で母性を、心の中に芽生え、根付かせているようなのです。

 「 人工保育された動物は生まれて来た子供を育てない。」
 という事が判り、報道されたのが私の中学生の頃(1970年代なかば)でしたから、案外最近の事なのですが、( 古いわっ )『 学ぶ 』 と言うのが 『 まねぶ 』 つまり 「 まねをする 」 が語源である通り、哺乳動物の育児のように、本能だけと思っていたのが後天的な学習によるものである、物心つく前、意識が始まる前の学習に依っている。それで幼児期、虐待を受けた子供が親になると、子供に暴力を振るう。「 意識化されない時期の学習 」 が、「 鏡のように受け継がれてゆく。」 しばしばミラーニューロンで説明されるようです。

 最近の研究でニート、不登校、統合失調症などの子供の両親に共通する、顕著な特徴が報告されています。( これを書いた頃、2000年代前半の話。しかしこれは普遍的な傾向で、改善する見込みがないので、申し上げておきます。 ) それは、
 弱い父親 ( 父性 ) と強い母親 ( 母性 )
 で、父親はとにかく存在感がない。病院やカウンセラーの所にも、来た事がない。逃げている訳です。少しでも能動性を見せたら、妻から非難されるからでしょうか。あるいはそれ以前の問題でしょうか?
 会った事があっても 「 まったく普通のお父さん 」 で、個性がない。と言うより、家庭という場で個性を出す事、意見を言う事を妻から禁じられている。周囲の雰囲気通りに服従している。
 で、一方母親の方は医師に対し、患者である子供が一言も口を聞けないほど、事態を最初から最後まで説明し、「 いったいどうすればよろしいのでしょうか? 」 と詰め寄り、子供はもとより、医師までを自分の世界に引きこもらせてしまう。

 子供時代の 『 赤毛のアン 』 のように、片時も黙る事が出来ないのを、自分の子供が成人する年齢まで引きずっているのでしょうね。もちろん夫婦、男女は完全に相呼応しているので、夫も男も同じです。
 母性と父性のアンバランスがそのまま家庭に現れており、それがそのまま子供に反映されている例は多いでしょう。
 河合隼雄博士が 『 ユング心理学入門 』 等で注意を呼びかけた通り、 『 母性の引き止める力、太母 ( グレートマザー ) の負の力 』 が支配的である事は、日本民族の意識の大きな傾向でもあります。
 ( と思ったら、他の国々でもニートは隆盛のようです。時代精神が、個人を社会システムに組み入れて安立させる事を要求し、個人はそれを拒絶しているのでしょうか? )

 これに対抗するには、『 子供の元型・トリックスター 』( 易経ではこの二つは同一視される。) が有効です。子供が自我を発展させて行く過程で、父と母の制止を振り切って、少々危険な事をする必要のある事は、言うまでもありません。
 たとえば私の甥っ子は、大学の研究室に寝袋を持って泊り込みました。ソファーに寝たら良いように思うのですが、「 そういう事をしてみたかった。」 のでしょう。好奇心と可能性への欲動は、健全な母性を足場にしてのみ、母性を振り切って、少年から青年、男へと自我発展の道を開きます。


 一方母性の方は、どうやって成長させるのか? これには古典的な手法があります。
 いったい我々は、どうして子供に 『 マッチ売りの少女 』 や 『 よだかの星 』、あるいは 『 フランダースの犬 』 などを読ませるのでしょう? 子供は読んで、悲しむのに。
 それは我々が、「 悲しみを教えたら、慈 ( いつくしみ ) の心を持ってくれる 」 事を知っているからです。子供はこの心で、自分自身を守ってくれる。これに守られて、さまざまな困難を、乗り越えてくれる。それを、知っているからでしょう。親が今まで、それで来たからです。人間に他の道は、ないのでしょう。
 欲動には本来、対象の区別はありません。他を傷つける心は、自虐へ向かう心と同じもので、他を慈しむ心がなければ、自分をうまく愛しみ、安定させる事も出来ません。

 『 慈・悲 』 とはよく言ったものですね。ところがこの二つは、表面的には正反対に見える。表面と本質は、しばしば相反するからです。
 同様の理由で、「 いのちの大切さを教えたら、子供は生命を攻撃し始める 」 訳です。この場合は、「 慈しみを教えて、悲しみを殺している 」 という事に成るのでしょう。


 また父性は、フロイト時代から 「 欲望の抑止力 」 として、有名です。衝動も相当に、抑止してくれます。
 母性と父性を自分の中に持つ事で、我々は父母から独立する事が出来る。
 たいていは、父となり母となり、それぞれに苦労する事で、母性と父性は確立するようです。

 母性と父性の欠落・喪失が、現代の異常な事件に深く関わっている事は、言うまでもありません。
 欠落と言うほどでもなく、少々欠如しているだけでも、本人は相当に苦しみます。
 さまざまな異常な事件の当事者達の内面の苦悩と、その反対に他者の苦痛に対するひどい無感覚は、我々の常識をはるかに越えているのでしょう。これは今まで文学が、ずいぶんやって来た事と思います。

 父と母が我々を、何から守ってくれたかと言うと、「 それは『 死 』だ 」 と言えるでしょう。
 母性と父性はそのまま 『 生きる力 』 と言い替えても、良いかも知れません。これが二つに表われたものでしょう。
 そして明らかに、おかげで我々は、ちゃんと死ぬ事もできるのです。

 母性と父性の欠落は、何より一番に危険なものです。

 欠けているのなら、何とかしなければなりません。
 本編で紹介した早川徳次は、母性も父性もまったく欠落していた。
 ところが人生の歩みの中で、それを見事に確立してしまった。
 まったく、勇気づけられます。

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