お詫びと言い訳
① 「どっかで聞いた風な句があるのは、何故ですか?」
「それはね、本人が気が付いていないからです。」
お気づきの表現があれば、教えて下さいっ。
また、この表現、明らかに間違いと言うのを見つけたら、教えて下さいっ!
03年の事と記憶していますが、車でラジオを聞いていた時、藤本義一先生がゲスト出演され、俳句の指南として、老人会などを回られた経験を紹介しておられました。藤本先生いわく。
「ど素人がね、いい句を作るんですよ。『句歴何十年』って人は、あんまりいい句を作らない。たとえばね、……… 」
と、上手な句を紹介します。私も聞き手のアナウンサー氏も、思わず小さな声で「ほおぉー」と感心する。まさに、何十年も句に親しんできた人の、作ったものです。しかしこれは、さる有名な句の表現を、知らずにまねたものでした。その有名な句を種明かしに聞かされ、私もアナウンサー氏も同時に「はあぁー。」と気付きます。
この人の句も、さる有名な句も、今ではまったく覚えていないので紹介する事は出来ませんが、次に藤本先生の紹介された句を忘れる事は、一生出来ないでしょう。これは83歳の、「もと大工さん」の創った句です。
冬の朝 パンダ顔出す 雪の穴
私は車を運転しながら、大爆笑をしてしまいました。
しかし、この句の空前にして絶後なる事は、どんな一流の詩人とさえも、並ぶではないか! 韻を踏むステップが、なんとも千鳥的にゆかしいではないか!
そう。『非凡さ』において、彼はすべてを超えた!
現に私は、行きつけの銀行に置いてある雑誌で読んだ黒田杏子先生の俳句 ……… 満天の星空と霧氷林を対比させ、両者を音の響きで結んだ見事な句を読んで深く感じ入り、「忘れるはずがない。」とメモも取らずに帰ったら、思い出せないのです! (誰か教えて下さいっ!)これはもちろん、私の感受性と頭が悪いからですが、そんな私に誰か、
「一度聞かせただけで、一生忘れられない句」
を、簡単に作れるでしょうか? 私はもう、作者の年齢まで忘れられません。
(そして私も384爻すべて、「一度読んだだけで、一生忘れられない句」を作れたら、さぞかし皆さん、便利なさるのでしょうが。《笑》)
そしてこれは、その作者が藤本先生に「絶対に人に見せないでくれ。」と深く頼んだ事と、無関係でしょうか? もう、心の一番深い所から、出てきたものだからではないでしょうか?
カントも最初、主著『純粋理性批判』を、「友人が書いた事にして出版しようとした」と聞き、「なんであんなガチガチの哲学書を?」と首を傾げた事がありますが、フーム、これは解るような気もする。(内容は、よくワカランのですが。)
私でさえ、『易経数え歌』を出すのは、ちょっと恥ずかしかった。何か、自分の心の細かいヒダや、絶対に知られたくない想いや経験を、すっかり知られてしまうような気がして ……… 哲学者が哲学を語ると言うのは、そう言う事なんでしょうか?
さて、非常に蛇足的なこの句の説明をすると、これはイメージの世界の説明になります。
冬の朝。一面の白。落ちている南天の赤い実。寒い! 可愛らしい。それを雪ウサギの目にした。美しい。思いがけぬ喜び。白い息を弾ませる。つらい。足先が痛い。楽しい。雪だるまを作る。落とし穴を掘る。指がしびれる。帰りたい。行きたい。コタツと猫がほしい。長い間ミカンを眺める。どこまでも歩きたい。恐い。そして、いとしい。抱きしめたい。抱きしめられている。冬の腕の中の無限を、どこまでも歩いて行く………(ちょっと、脱線。私は勝手な妄想の中を、どこまでも歩いて行く。)
しかし「冬の寒さと楽しさと驚きを句に詠め。」と言われて、この句を越えるのは、プロでもなかなか簡単にはいかないのではないでしょうか?
そして、この句はもっと、いくらでもほめる事が出来ます。しかし、けなそうとすれば、せいぜい三行で終わってしまいますね。
また、古くから馴染んだ表現は、自分のものと思って知らずに使ってしまう事があります。
「これ、あんまりそのまんまじゃないか?」
と思われるものを見つけたら、どうかお報せください! (合掌)
私自身、嫌疑をかけているのは、例えば水沢節の大成卦、
すこやかに 伸びゆくものよ 竹の節
などは、あんまりすんなり出てきたので、最近どこかで読んだものではないかと疑わしい。あるいは小さい頃、そんな色紙が壁に掛かっていたのでしょうか? まったく「どっかで聞いたふうな句」ですね。
また、山火賁の五爻
美しきかな 麦や稲穂は
などは、かなり有名な句か歌になかったでしょうか? 思い出せない。
また地沢臨の初爻、
どうか このまま
なんかは、ほぼ、その通りの歌詞の歌があります。しかし実は、これを作った時の私の頭の中には、中島みゆき姫様の『歌をあなたに』が鳴っていました。あの、北海道から単身、生ギター1本引っ下げて来て、GパンとTシャツ姿でヤマハを制してしまったと言う、伝説の曲ですね。しかし、「どうぞそのまま どうかこのまま」が盗用か慣用かは、むつかしい所。盗用とすれば、最初に使われたのは古代かも。だって、大芸術家から、ちょっと手料理を作った人まで、「どうかこのまま」は、それこそ、そのまんまの気持ですからね。
② 「何の事か分からない句がありますが、何とかしてください。」
「ううっ、『一人わかり』しています。どの爻か、教えてください! 自分では気付かないでいるのですっ。」
例えば山水蒙の二爻は最初、
二つ包むは蒙と妻(さい) めでたく教え 睦みあう
でした。これを五七五にしようとして
蒙と妻 ふたつめでたく 睦みあう
と成りました。作った時には「うまくできたなあ。」と思ったのですが、二週間ほど間を開けて読むと、「こりゃあどちらも何の事か、誰がどう読んでも、絶対にワカランなっ。」と気付きました。「原典読んでください。」などと言うと殴られますので、気付きしだい、暫時書き直します。
③ 「まれに卦名や爻数の入っていないものがありますが、どうした事ですか?」
「すいません、入れられなかったんですう! 暫時、書き直します。」
案外よく見ると、入っているものが多いです。探して遊びましょう。
あんまり分かりにくいと思われたものには、ルビやカッコで書きましたが、後半に入るに従って、この努力を怠りがちにしたのは、まずかったかな? まあ、読んだらだいたい分かると思います。しかし、読んですぐ判らないものは、これも書き直しの対象でしょうね。
後半から、「句のアタマに爻数を持ってきたら、覚えやすい。」と言う事に気付き、なるべくそうしましたが、卦名や爻数をムリに詠み込んだり、こういった操作をする事で
『原典の意を損なう、ずらす場合は、作らずにおく』
事にしました。おそらく誰もが、「ウソを読むよりは、ヘタを読む方がましだ。」と思うに違いないからです。
だから基本的に、あなたが原典から離れたものを読む事は、ありません。
ちょっとズレたかと思うものが一つ。雷沢帰妹の三爻
愛を求めて きりきりまい
ですね。これは全爻で、一番苦しい爻ではないでしょうか?(笑) なにしろ帰妹(きまい)のように、現代日本語にないコトバは、詠み込みようがないというのが、本当です。きりきり舞いしているのは私で、原意は「女の身で、ドンファンのように好色に男を漁り、走り回る」と言ったニュアンスがあります。しかし、周囲をきりきり舞いさせている者は、必ず本人が一番きりきり舞いしている。だからそのまま通したのですが、これはホップアップで書いておきましたが、スマホでは。
いつかこの仕事は、ちゃんとした文才のある人がきっと、見事にやってれると思います。
しかし、いくら何でも、『半年は易で遊ばなければ』これを作るのは無理でしょう。例えば雷風恒の初爻、
最初から 夫婦になろうと 言われても
あなたは誰あれ? 私、知らない。
などは、原典と読み比べた人は、「はっはっは、こいつ、
同じ64卦を重ねて出すだけでも、4096分の1ですから大変なものですが、変爻を出す占いで、この時には同じ占断が三四回出たと記憶しています。384の三乗か四乗分の1ですから、ほぼ
易と遊ばずに、ここまで深い意識に達して易を語るには、最初から易経の原典を書くくらいの才能がなければ、ムリです。(反対に言えば、易と遊ぶと必要な時には、そこにまで触れるのです。この点、易は少々危険なものとも言えるでしょう。)
私は北原白秋や、稲垣足穂のような人の作った『易経数え歌』が、読みたい!
絶っ対に、面白いに違いないっ ……… 読みたいよう。あいつら、易経なんて常識的に知っていたくせに、すぐ作れるのに、なんで作ってくれなかったんだよう!
そう言う無茶苦茶を叫びたいくらいです。
これを作ったのは「私」ですから、あちこちに「出来そこない」があるのにはまあ、目をつむりましょう。「どうしても見える。」と言う人には、目隠しをしてあげます。
しかしこれは、あくまで「私の」易経数え歌ですので、私の理解を越えるものではありません。あなたはどうか、ご自身で原典の世界を味わっていただきたいと思います。
このHPがそのためのきっかけになるなら、まったくさいわいであります。