当たり方・はずれ方

 四柱推命や六壬など、生年月日や事件の起こった時間で占う方法の先生が、

 「易のような偶然を根拠とした占いでは、同じ問題を占って同じ卦が出たり、複数の人が一つの問題を占って同じ卦を出したりする事は、まずありません。一度も聞いた事がありません。」

 と言っているのを二度、読んだ事がありますが、易をやっている人は誰でも、これらの事はよく経験します。特に珍しい事ではありません。根拠は偶然ではなく 『 共時性 』 です。

 ところが厄介な事に、「 だから間違いなく当たっている。」
 とも言えないのです。

 まず、ハズレ方の一つに、『 自分の想いを映してしまう。』と言う事があります。たとえば、私は親戚の出産で、生まれてくる子供の性別を問われた事があります。難問ですね。占いにとって二者択一は、「 十の中から一つを選べ。」と言われるよりも、難しいものです。
 兌為沢を得て、「 これは女の子の双子ではないか?」と答えました。
 ところがその夫婦は、「 双子だったらいいのに。」と強く望んでいたのです。それが卦に映ってしまったのですね。結果は一人の女の子の出産でした。
 これは自分の想いではなく、相手の想いを映してしまった例です。依頼を受けた私の態度が問題です。「 良い卦を出してあげたい。」と言う媚びがあったのではないでしょうか? 「 良い運命をくれてやろう。」と言う訳で、媚びと言うのは、まことに傲慢に似ていますね。

 反対に、自分の心配事を映してしまう。「 あまりにも心配していた通り 」の卦が出た時には一応、疑ってかかるべきと思います。例えば非常な心配事が起こって慌てている時には、いったん落ち着いてから占うべきです。出来たら一晩寝るなどして占えば良いと思います。
 タロットカードの 『 ケルト十字法 』 の9枚目のカードに「質問者の希望と恐怖」と言うのがあります。はじめてそれを読んだ時、「 なんで希望と恐怖がセットになっているんだろう? 正反対じゃないか。」と不思議でしたが、言い得て妙ですね。未来を見る事は、常にこの二つとの格闘です。
 言わば10枚目の結論を出す前に、『毒抜き』をしているのでしょう。あまり気持ちが乱れている時は、本題を占う前に、

 「 いったい自分は、本当は何を望んでいるのか? いま何故この問題を占おうとしているのか?」

 と、占って見るのも一手です。なかなか示唆に富む答えを得る事があります。

 同様に、西洋占星術で第12室は「死とセックスの宮」です。この二つが一緒に成っている事にも、ひどく違和感を覚えたものですが、『 影 』(シャドウ コンプレックス)の中心を、見事に射抜いていますね。よく「 もう死んでもいい。」とか、「 死ねよとばかりにいだきあった。」とかの表現がありますが、性と死は、まったく近いものです。
 ともに『 意識の放棄・喪失 』で、だから性を開放すれば、死も開放する事が出来るのですね。「 元型にも陰陽があるのだろうか?」と考え込んでしまいました。

 その人の影の傾向と特性を見る。「 船底のどこに重りがあるか判れば、舳先の向きも、その理由も判る。」という訳です。
 当たる外れるは別として、西洋人が古くからこのような人間の見方をしていた事には、非常に感慨深いものがあり、色々と考えさせられます。

 さて、話を戻しますが、易と言うのは明らかに、自分の意識の底を映す鏡と言えましょう。
 怖がってばかりの、鬱 ( うつ ) 状態の自分がいる。反対に、都合のいい事ばかり考えて、浮かれ上がった躁状態の自分がいる。その奥に、何でも知っている、いつも自分の事を思ってくれている、本当の自分がいる。こいつを引きずり出さねば………

 しかし「 思っていた通りの卦が出た。ハズレだ。心配していた通りの卦が出た。ハズレだ。」などと言っていれば、占いの価値はありません。
 ハズレ方には、一定のパターンを指摘する事が出来ます。それを気を付けていれば、そうそうデタラメな事には成りません。

 まず、もっとも有名なものに、易経原典『山水蒙』の
 「 初筮は告ぐ 再三すればけがる けがるれば告げず 」
 と言う句があります。これは文字通り「 初めに占った時にはちゃんと答えてあげるが、二度も三度も占ったら、けがれてしまう。そう成ればもう、教えてやらない。」と言う意味です。
 ここで使われるケガレと言う字は、冒 ぼうとくのとくの字です。(漢字、アップできませんね。)

 何やら易神を怒らせてしまったようですが、確かに意識の深い所には、そのような気難しさがあります。スポーツや作業でも、微妙な感覚を使わなければならないような動きを、気を抜いて、いい加減な気持ちでして失敗すると、しばらくの間、その動きが出来なくなったりします。
 「 今からちょっと、ムツカシイ事をするんだ。」
 と、多少緊張して襟 ( えり ) をただし、「 一発で決めるぞ。」と言う気持ちで占ってこそ、紙くずもゴミ箱に入ると言うものです。

  また、何度も水をかき回しているうちに、すっかり濁ってしまい、見えなくなってしまうようでもあります。

 しかし私はこれに対して、「三べんくらいはヨロシイ。」
 と思います。
 黄 小娥先生は、「 こころ乱るれば 占、おのずから正しからず。」と言う名言を残して下さいましたが、我々シロウトが自分の事を占う場合、たいてい心が乱れていますね。(笑) 落ち着いていれば、占いなんかしないと言うのが、ある意味、本当です。
 うまく現実が回転している時には、占いなんぞしているヒマもない。そんな気分にも成らないのですが、そういう時に占うと、うまくいっている事の理由を的確に説明してくれたり、これからの指針まで、「 自分の中から引き出して 」 くれます。「 落ち着いてきたな 」 と思った時、占うのも一手です。よく当たります。

 また、「 最近すごく当たり始めた。」 と言う波があります。そんな時にはかねてから知りたかった事を、大きな視野から占ってみます。非常にために成る答えが得られます。
 私は友人に易を勧め、彼が当たり始めたら占ってもらうと言う、コソクなワザを使っています。(笑)

 また、「 その問題が非っ常ーに、知りたくて知りたくて、たまらなくなる時を待つ 」 と言う方法は、もっとも的中率を高めます。ふっと急に知りたくなり、「 今だ 」 と言う時があります。好機ですから、六壬や密教占星三元九星などの、占機を使った占いが出来る人は時間をメモしておいて、易とともに参考にしましょう。
 そう言ったとき一瞬、「 すっ 」 とクリアでフラットな気持ちに成る事がたまにあり、この時に占うと、まさに百発百中です。「 知りたい 」 という意志そのもの成っているのでしょう。
 こういう精神状態に自由に成れたら、プロとしてやって行けるのでしょうね。

 しかし、こういう精神状態に成る 『 練習 』 は、冗談抜きで「アタマがおかしくなる」ので、ご注意ください。「 現実生活に支障が出始める 」 と言うのが、目安です。
 心理学者のL.ソンディ博士は、
 『 神経症は疾患・夢・運命に現れる。』
 と言っておられます。まことに至言だと思います。
 相当に危険な域に入っていても、らくらくと現実生活を営んでいる人は少なくないように見受けます。
 その場合、前兆に非常に気になる夢、非常に元型的な ( 意識の深い所の怪物が、妨げなくのうのうと出てくるような ) イメージの夢、あるいは死を中心とした危険な夢、明らかに 「 警告ではないか? 」 と言うような夢を見たり、反対に自我発展の道がまったく停滞して、一切夢を見なく成る。
 運命的に悪い徴候が現われ、「 まるで渦の中に引き込まれるような 」 印象を受け始めたら、要注意と言えましょう。いったん神秘的な事や、アニマ ( 自分の深い心 ) を相手にした芸術関連からは、しばらく身を遠ざけた方が良いかも知れません。
 幻覚の見える患者に精神科の先生が、
 『 テレビ、ドラマ、映画、小説、マンガ、一切禁止。実用書のみ可。音楽も際どいのはダメ。 』
 という処方をされたのを知っていますが、しばらくするとその患者は一切幻覚が消えたといいます。徹底的に目の前の現実に対応する方法ですね。ちょっと原始仏教や、「 私には机のイデアなど見えないね。」 と言ったギリシャの哲学者、ディオゲネスの教説を思い出します。本人も、「 入院するよりはずっとマシだ。」 と喜んでいます。

 ソンディ博士に関する文章は、長いので別ファイルにしました。

 占い師の中には、「 最近、心理学と運命がどうこうと言う人があるが、運命と心理学はまったく関係ない。」 と言う方もおられます。これも、ある意味では本当の事で、短気な人が失敗するとは限らず、優しい人が結婚できるとも限らない。
 「運命と性格には直接の関係はない。」これは、絶対です。
 だから十二星座別の組み合わせによる夫婦の離婚率を、かなり大掛かりに調べたテレビ番組がありましたが、( 80年代初め頃でしたっけ、かなり前です。) 結果は見事に144(12の二乗)分の1でした。データを増やすほど、限りなく正確に144分の1に近づいて行くと思います。
 しかし、「 無意識をふくめた意識が、運命を形づくって行く。」 と表現すれば、誰しもある程度、納得していただけるのではないでしょうか?
 「 正しい運命は、正常な意識から 」 と言う訳です。

 『 意識を正常に保つ事 』
 これなくしては、占いが当たっても、何にも成りません。ところがこれは、案外にむつかしい事のようです。
 意識が健全さを欠き始めると、かえって、当たらなく成ります。ところが 「 本人は当たっているつもりでいる 」 という事がたまにあり、事態は深刻なものに成って行きます。
 占いは現実世界の事を占うのに、現実から乖離 ( かいり ) してしまっているのだから、当然と言えましょう。

 我々生きている人間は、現実世界に関わりを持っていなければ、意識を正常に保つ事は出来ません。少し座を離れるにしても、明らかにそれは、また歩き始めるためです。
 反対に、現実世界を成立させている世界にも関わらねば、やはり意識を正常に保つ事はできません。ユングは 『 宗教の欠落 』 によって精神病に成る例を 『 自伝 』 一巻のp などで紹介しています。


 しかし、アチラの世界に頭から没入してしまうと、戻って来れなくなります。またこれは、甘美な酒のようで、飲むほどに 「 次 」 がほしくなります。
 この点でも、易の持つ優れた現実感覚は、ちょうど起きている間と眠っている間をつなぐ 『 夢 』 のように、こちらとアチラの世界をうまく結んでくれる事と思います。もしかしたらこれが、易の一番の良い事かも知れません。

 ついでに夢をたとえに言っておきますと、思い出せないような夢は、たいして重要ではないのだと言います。『 反復夢 』 と呼ばれる繰り返し見る夢、かなり前に見たのに、長い間、忘れられない、折に触れて思い出してしまう夢が、重要だと言います。
 易もまったく同じで、何かを占った時、繰り返し出る卦、一度っきり出ただけなのに、「 あの時これを占って、これが出たんだ。」 と、忘れられない卦は、重要であると思います。

 さて、少し横道にそれましたね。もとに戻りましょう。

 占意は絞らねばなりません。何について、どう聞くか、できるだけ具体的に決めてから占うべきです。漠然とした質問には、漠然とした答えしか返ってきません。しかし、
 「 今の自分に何か言葉をくれ。」
 そういう無茶苦茶な占い方をしても、もし真剣に聞いているのなら、必ず何かしら、手がかりとなる答えが返ってきます。

 「 おみくじ 」 なんか、そうですね。あんなもの、理論的、科学的には、当たるはずはありません。しかし、何か特別な時、お正月や受験の前などに、身なりをただして朝早くから出かけ、まじめな気持ちで引く。その答えを素直に読むと、必ず得るものがありますし、もしなければ、かえって反省したりします。
 「 おみくじ 」 は一応、信仰のもので、神託を伺うものです。
 「 易 」 も一応、易神というものを想定して、それに伺いをたてる事もあるのですが、易の場合、
 『 自分の心に対して問いかける。』
 と言うニュアンスが、非常に強いように思います。
 この 『 自分の心 』 と言うのは、もちろん、今の問題に苦しむ自分自身でも、空想上の理想の自分でもありません。
 それは、秋の終わりに星の降らした露のしずくが、朝日を受けてはじいた色であり、他人だった恋人が、はじめてすれ違った時、残していった風であり、冬を越して伸び始めた植物が、炭を焼くような霧のにおいの中で、歌う歌です。
 いわば、世界そのものが、その中心に触れた時のような、自分自身です。『 自己 』 ( セルフ ) と呼ばれるものです。それに問いかけるのが、易です。他のどんなものより気高く、また身近なものです。


 プロの占い師の方はよく、
 「 二三日、日を置いてから占ってみましょう。状況が変わったら、再度占ってみましょう。」 あるいは、
 「 角度を変えて、占ってみましょう。」 などとおっしゃいます。

 日を置いて占えと言われた時、たいていの場合、気持ちが荒れ狂っており、ごく近い未来や、一面的な現象くらいしか見えなくなっている事が多いので、それに答えを返してしまい、『 占い自体が行き詰まって 』 います。
 これは、自分が良く知らない分野を占う時にも起こる現象です。( 人により、全然無視して当てる奴も居ます。初学の時も同様で、易の本などまったく読んでいないのに、習い始めの時の方が良く当たる人がいます。むしろこうした人の方が多い……… よく考えたら、自分の知らない分野の事は、『 特に知りたくない 』……… そう言えば、私が今でも覚えているほど見事にハズした時には、人からムリに占ってくれと言われた時でした ……… 何度か断った後。)

 現代人は、浅い意識にはまり込み、まるで奴隷のように事象に引き回されがちですが、この場合はそのまったく逆です。自分が自分の内面の不安や希望に引き回され、空想や妄想、無意識からの力が、自我を引き回しています。
 こう成ってしまったら当面、目の前の現実に、自分の経験と判断で対応しましょう。その方がいい結果が得られると思います。

 そうして、これは易やタロットなどの雑占法にしか出来ない事ですが、
 「 ある問題を占ってみて、凶だった。占断の結果はまったく思い当たる事ばかりで、現状をそのまま言い当てられた。それであきらめていると、状況が変わって来て、もう一度占ってみると、今度は大吉だった。それでやってみると、思い通りに行った。」
 と言う事があります。まるで神様が、目的を達成するために、自分をいなしてくれたようですね。
 絶えず現実に対応するよう、宿命づけられている我々にとって、易は貴重な話し相手、よき師でもあると思います。

 そしてこれは易だけに言える事ですが、易は理想を謳ってくれています。
 理想は、現実の対立概念ではありません。結構な処世訓でもありません。理想は現実にとって必要な、現実の大切な一部分です。これがなければ、現実は成立しません。
 理想は我々の意識を正常化してくれる、暗闇を歩くための灯火ようなものです。行く先もないのに、誰が歩き続ける事が出来るでしょう? (この事は『トンボの太陽』と言う題で、小文にまとめようと思っています。)

 さまざまな占いがありますが、たとえば四柱推命で、
 「日中上段が庚の男性は、どう生きるべきか。」
 などの事を、孔子や朱子、新井白蛾などの和漢の大学者が、寄ってたかって意見を述べ、それがちゃんと残っているなどという事は、ありえない事です。このさいわいは、易にだけある奇跡です。それは、易の徹底したシンプルさ、普遍性からくる強い魅力が、彼らの思索の良き題材と成り得たからでしょう。

 さて、角度を変えて見ると言うのは、良い方法です。たとえば、
 「 もう会社、やめようか。」
 と、占ってみる。すると、訳のワカラン卦が出る。特に、初心者に多いのですが、「 出た卦をどう解釈してよいか、解らない。」 のです。結婚を占って戦争の卦が出るのは、まだ解釈のしようもあるのですが、学問や政治の卦など出たら、何をどう解釈してよいやら、見当もつきません。だからなるべくたくさんの人の解釈 ( 経験 ) を読まねばならないのですが、そこで今度は、

 「 このままもうしばらく我慢していればどうか?」
 「 まず次の会社を探してはどうか?」

 と、占ってみます。まず、真正面から占ってみる。これが、正解です。本当は、すべてこの卦の中に現れているというのが、本当です。しかし初学の場合、そこまで読みきれない。だからいくつかの選択肢を占ってみるのですね。そうして複数出た卦を、眺め回していると、自分の状況に思い当たる事が、ちゃんと筋道がついて、見えてきます。

 そして 「 会社、やめる。」 と判断したとしましょう。
 そうしたら仕事の引継ぎとか、他部署との関連で、自分が受け持っていた立場とか見えてきます。心理的にも同僚達は 『 他人 』 に成って行くので、甘えがなくなります。会社への愛惜の念も出てきます。そうして会社を辞めるためにしなければならない事をこなして行くうちに、社内が整って、やめる必要がなくなるという事も、ありそうな事です。

 そしてもし、本当に会社をやめるにしても、それは冒険ではなく、計画的な 『 旅立ち 』 に成るでしょう。
 ただ、「 やり切れないから辞める。」「 腹が立つから辞める 」 と言う 『 不幸な事 』 でもなくなるでしょう。
 ( もっとも、それが必ず悪いと言う訳でもなく、たとえば、腹を立てて辞めた社員が創業したのが、『 京セラ 』 だったと言います。明日、どんな花が咲くのか、わかりません。)

 また、そのまま会社に残って辛抱するにせよ、今度は 「 何故いま辛抱しているか。」 と言うのが解っていますから、いらない心労をする事はなくなります。今の辛抱は、次の展開への 「 意味ある 」 努力となり、人間、やっている事に意味を感じる事が出来たら、苦痛ではなくなります。かえって楽しいくらいに成る事もあります。

 しかしもし、「 角度を変えて占った結果 」 がバラバラなら、やはり占いを参考にする状況にないと考えるべきでしょう。あんまり何度も占っていると、
 『 出る卦に脈絡がなくなってくる。矛盾した卦が出るようになる。』
 と言うのが、特徴です。また酷い時には、
 『 明らかにその時だけの気分を映している 』
 と思い当たる時もあります。
 このような場合にも、しばらく占いから頭を離して、自分の目と経験で、状況に対応してください。少し休んだり、しばらく他の事に目をやったりした方が、やはり、かえってよい結果になると思います。

 出る卦に一喜一憂しないためには、最初に大筋を占っておく、たとえば、
 「 今年一年の運勢は? 」 でもいいですが、これはちょっと、漠然とし過ぎてていて、参考にしにくいと思います。
 「 向こう三ヶ月の恋愛運は? 」 など、せいぜい半年くらいまでが、実用的と思います。ほか、
 「 今月の仕事運は? 」 とか、
 「 この仕事全体の基本的な注意事項は? 」
 など、少しでも経験を積めば、
 『 悪い卦が出ても、そうそう恐がったりする必要はない。』
 と言う事が感覚的に判り、何に注意すべきかがはっきりして、易はより、有意義なものに成って行くと思います。