乾為天 終日乾々とは?
これは乾為天の三爻に無理矢理ねじ込んでいた文章なのですが、長くなったのでエッセイに独立させようと思いながら書いていて、放っとらかしにしてありました。スミマセン。
『 終日乾乾すとは、道を反復するなり。 』について申し上げます。
それは、私が熱狂していた、桂枝雀 師匠の話です。
日本の古典に世阿弥が書いた『 風姿花伝 』というのがあり、それによれば、「 天才は十代後半で、すでに道を極める。その分野の頂点に立つ事がある。」のだそうです。枝雀師匠もごく若くして、落語界の頂点に立ちました。爆笑王の異名を取り、とにかく楽しい。そして巧い。演れる演題も、後に人間国宝に成った米朝師匠に迫る勢いです。見事としか言いようがない。
しかしそれからどうしたら良いんだ? みんな頂点を目指して、それに一歩でも近づこうと努力して、精神の均衡を保っているのに ………
枝雀師匠は、「 新しい事 」を始めました。例えば英語の落語です。日本人にとっては意外な事に、日本以外には落語のような一人の話芸がないらしい。これは残念だ。それで言葉の壁を破ろうとしたのでしょう。
テレビで見た事がありますが、欧米人の観客は、落語を見て笑っていました。集まった観客は日本文化のファンばかりのようです。しかし、枝雀師匠の顔や仕草を見て笑っている。噺を聞いているようには見えない。落語の間や言い回しは、翻訳出来ない。話芸には成っていない。失敗ではないが、徒労でした。
枝雀師匠は何故そんな事をしようとしたか? やる事がなくなったら、
『 何かしなければいけない! 』
という、強迫観念のようなものが生ずるからです。そんな調子で何かをしたら、それは新しい事ではなく、「 他の事 」に成ってしまいます。本当に新しい事は、
『 反復その道 』
頂点を極めた技芸の質を落とさぬという、それこそ一番困難な事を、繰り返し、繰り返し、うまず、たゆまず、反復する中から出来てくる。
蛇足を申し上げますと、これは何も天才だけの話ではなく、我々自身もです。例えば、そこそこ食って行けるだけのお客が来てくれる程度の味を維持する事や、いつどんな時でも、最低限の対応は必ずする、出来るという体制を維持する努力の事です。これこそ本当に、難しい事です。
お好み焼きみたいなものでも、毎日々々、同じものを焼き続ける。その中から「 こうしたらどうか?! 」というのが出てくる。なんでもネットで検索して「 ちゃっ、ちゃっ、」とは、いかないものです。
乾々に対するもう一つの敵は、倦怠( けんたい )です。宮崎アニメはメッセージ性の強い作品ばかりですが、必ず『 ドロドロ 』が出て来るでしょう。ファンタジー小説でも、例えばエンデの『 はてしない物語 』では、「 一足進むごとに全身から力と意欲が消えてゆく沼 」などが出てきます。しかも主人公は、その中心に行かねばならないのです。この沼には、「 何かをしよう 」 としている人は、必ず行かねばならないのではないでしょうか? これこそが、真の敵かも知れません。
本当に新しい事は、探し回っても見つかるものでもなく、考え抜いても解るものでもなく、日常に専念する事の中から、自然に『 できて来る 』ものです。たとえすべてを刷新するような偉大なひらめきでも、それは案外日常の繰り返しや、幼少期の、とても貴重とは思えぬ経験から出て来ているものです。
米朝師匠は『 反復その道 』の通りでしたね。そうして自然に出て来たものの一つが、枝雀師匠だった ……… と思います。
しかし苦行のような『 頂点の維持 』は、自分ひとりだけの甲斐( かい )のない努力ではありません。頂点を極めれば、拡散を始めます。
例えば音楽は、バッハが基盤を作り、モーツァルトが完成し、ベートーベンが完結したと私は思っているのですが、それで終わりだったでしょうか? それどころか、その後の音楽は、実に自由に成りました!
その後の作曲家達が受け取ったのは、重いバトンではなく、果てしない自由でした。
ショパン、シューベルト、シベリウス、ビートルズ、また日本の童謡作曲者から、ちょっとした歌謡曲まで、みなごく自然にその恩恵に与( あずか )っています。
古典落語なんか、あれ以上どうしようもありません。しかし、その高みを維持して行けば知らないうちに、他に拡散して行っているのです。漫才や話術だけでなく、作家や漫画家、それどころか特に落語なんか聞いた事のない人でも、直接間接を問わずに、相当の助力を米朝師匠から受けていると思います。もちろん枝雀師匠も、大きな仕事をして逝かれたのは、言うまでもありません。まったく、あれほど落語を現代に知らしめた人がいたでしょうか?
大学者や大作家が尊敬されるのも、上の理由からです。子規、漱石や手塚治虫。西澤潤一や糸川英夫、古くは最澄、空海などからは、我々、知らないうちにどれくらいお世話に成っているか、分かりません。
我々がこうしていられるのも、みな彼らの『 終日乾々 』のおかげだと思います。