姉崎正治博士は?

 仏教学の方でも、原始仏教(根本仏教)を対象とする近代仏教学の初期、つまり、最も実りの多かった時期には、「 ショウペンハウエル的仏教理解 」が仏教学の主流であり、明治時代、近代仏教学の礎を築いた一人である姉崎正治博士が、主著の邦訳をされています。(これはたいへんな、ご労作です。多少以上の義務感を持たれたのだと思います。)

 白水社全集の2巻の折り込み解説を、中村元博士が書いておられるのも、私には偶然とは思えないのです。
 私は唯識の全体像を把握した時、思わず
 「 なんだ、これは。まるでショウペンハウエル哲学そのものじゃないか! 」
 と叫びました。というのも、ショウペンハウエル哲学は、まさに『道諦の欠落した仏教学』とでも言うべきものだからです。

 仏陀釈尊の教説は、(原始仏教、釈尊の仏教に限って言えば、)たいへんに平易です。多くは『当面の問題』に対して仏教的な答えを返す形に成っています。ところが釈尊は、誰にも解らない「 悟り 」と言うものを得て、それで現実に対しています。これが仏教を爆発的に流布させました。
 ショウペンハウエルも、誰にも読まれなかった返本の山、『意志と表象としての世界』を著し、「 ワシは世界と人間の本質を明確に把握したのじゃっ。」と宣言して帰ってきたのですが、その目で見た世の中のさまざまな事、『余禄と補遺パレルガ ウント パラリポメナ 』で、大ヒットを飛ばしました。そして『余禄と補遺』の平易さは、他の哲学者に親しんだ人達には、異様と感じられるほどです。
 このように仏教とショウペンハウエル哲学は、構造的にもなかなか似た所があります。その後の運命にも似た所があるのは、偶然ではないでしょう。
 「 真理が見出されるには長い時間がかかり、その寿命は短い。」
 などは、彼の有名なセリフです。

 姉崎博士がショウペンハウエル哲学に接した時、どのように感じられたか、私には想像する事も出来ませんが、ショウペンハウエルの、
 「 一方の書物は、もう一方の書物の最良の注釈書たり得る。」
 という言葉通り、「 ショウペンハウエル哲学に親しむ事は、仏教学全体の理解に対して、きわめて有益である。」と考えられた事は、確かだと思います。
 そして、「 ショウペンハウエル哲学に対する答えとしての仏教学を考えてほしい 」と、思っておられたのかも知れません。



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