君子豹変 再考 (捨てきれぬ誤用の味)
君子豹変、なるほど、易経らしい意味でしたね。おまけに、易経本文の流れまで見えてきましたね。めでたい事です。しかしこの場合、
「これが正しい意味で、今まで使っていたのは間違いでした。これからは、正しく使いましょう。」
と言えるかどうか?
「なぜ巷間で誤用が流通しているか?」
に対して私は少々、ややこしい事を言いました。しかし原因は、それだけでしょうか? つまり、
我々は今まで、あまりに君子が豹変するのを、まのあたりにして来なかったか?
と言う訳です。
それならこれは、誤用とは言えません。
しかし厳密さを大切にする人は、
「君子と言うコトバの意味を、誤って使っているではないか。」
と言われるかも知れません。しかし『君子』が何か、結構な意味であると知らない人は、まずおりません。
巷間で使われている意味では、明らかに
その証拠に、『君子』と言う言葉を使って良く使われる、もう一つの格言は、
「君子あやうきに近寄らず。」
ですね。これは、厄介事を避ける時に、ちょっとした滑稽さを狙って使われます。
その後に「義を見てせざるは勇なきなり、とも言うが。」などと、コントのように続く事もあります。(ともに『論語』からの引用です。)
君子は大体、
「あいつ、君子(高位、高禄)に成ったら、急に変わったなあ ………」
なんて事も、しばしばです。
マスコミは頻々と、えらい人の信じがたいような愚かな言動を伝えていますよね。私は二十歳前後の頃、
「こんなもの、マスコミが面白がって書き立てているだけだ。」
そう思っていました。その根拠は、「こんな馬鹿な人間が、いるはずがない。いくら政治が腐敗しているからと言っても、こんな人間がしばらくの間でも、社会人としてやって行ける筈がない。」と言うものでした。
この考えも、ある意味で正しいと言えましょう。そんな馬鹿な人間など、この世に『いない』のです。しかしどうやら、『成ってしまう』ようなのです。これはそれから二十年以上、毎日のように類似の例を見続け、最近やっと気づき始めた事です。
これはまったく、恐ろしい事だと言えましょう。自分がえらく成らなくて良かったと、つくづく思います。(本当か。)
えらくなる。嬉しい。調子に乗る →
今まででは考えられなかったような劣悪な情念が、むくむくと頭をもたげる。→
最初は解っているが、しまいにこの感情の奴隷と成り ………
ああ、誰だってそうだと言うのか?
しかしどうしたら、えらく成ってもバカに成らずにすむのでしょう? 難問ですね。
ひとつだけ、思い当たる事があります。それは、
悪い事があっても、へこたれない練習をする事です。
悪い事が起こると、いちいち落ち込み、へこたれる。
そんな調子だから、良い事が起こると、すぐに調子に乗る。舞い上がって思い上がる。今まで助けてくれていた人が、馬鹿に見える。
水浴場にかかる柱のように、毀誉褒貶にビクともしない、しっかりした自分を持つ事。これが眼目で、吉凶は二の次でしょう。
だって、そんな人ならどんな状況でも切り抜けて行けるし、逆境の中でも苦しんだりはりしない。人生はまるで、安定した列車に乗って、窓から光や影の景色を見るようです。
しかし自分がしっかりしていなければ、どんな良い状態にあっても吹き上げられた木の葉のようなもので、人品はたちまちケダモノのように成ってしまい、実際すぐ落ちて、それっきりにも成るでしょう。第一そういった人は、いつもイライラしています。良い環境にもすぐに飽きてしまい、あまり仕合わせそうな顔をしていません。
むしろ、非常に危険な事を始めたりします。
『人間、えらくなったら、ばかになってしまう。』
この巷間の誤用は、実にきわめてスルドイ!
恐るべきは『世間様』! 神人たる易経の作者に対して一歩も引かず、タイマン張っております!
我々も、えらく成ったら、急に態度を変えるかも知れない。訓戒・警告としても、君子豹変の巷間の誤用は、捨てがたい ………
格言・故事成語には、「もともとは、違う意味だったんだ。」と言うのが、いくつもあったように思います。例えば『紺屋の白袴』と言うのは、「医者の不養生・坊主の不信心」と同じような意味で使われていますが、もとは「自分の事を顧みず、他者のために奔走する。」と言う、たいへん日本人的な意味だったと聞いた事があります。複数の辞書を引いて見たのですが、その変遷は、はっきりとは判りませんでした。
とにかく語の定義に専念する『広辞苑』には、「他人のためにばかり忙しくして、自分の事をする暇のないことを言う。」とありますので、まず、これが原意だったのだと思います。しかし、世間様が使えば、「使われている意味を載せるのが辞書」なのですから、他の辞書が間違っていると言う訳でもありません。
将来、辞書を引いたら、
『君子豹変のもともとの意味は、
君子は周囲と関わり合う事によって、人々を感化しながら、あざやかに(速やかに)自己と周囲を向上させ、変革して行く。
君子はあざやかに(すべてを)革(あらた) める。
君子はあざやかに(自他を)革(あらた) める。
などの意味だが、普通は反語的に、
「小人は立場を得ると急に態度を変える」の意味で、
また、自分が方針や態度を変えた時、言い訳のために使われる。
《 用例 → 『そんな小さな事はどうでも良い。君子は、豹変するのだ。』 など。》』
なんて事に、成っているかも知れませんね。
君子豹変は、もともとの意味にも誤用にも、ともに捨てがたい味があります。
さんざ触っておいて、こんな事を言うと叱られそうですが、まあ、放って置くしかないと言う事でしょうね。(笑)
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