ブラックな集団で生きるには?
現在、会社も役所も学級も、あらゆる集団がブラックに成ってしまい、この問題に対しては切迫している人が少なくないと思うので、雷火豊の二爻からエッセイに独立させました。
『 莊子 』内篇 第四 人間世( じんかんせい )篇 1 ~ 6 に、この問題への一つの回答が示されています。
それは、衛の国の暴王を諭( さと )し、国を救いに行こうする門下第一席の顔回に、孔子が試問する形式の対話です。
まず孔子が、
「 何のために行くのか? 」 と、問います。
「 国の病を治すためです。賢者が亡国に行くと、医者に病人が群がるように人が集まって来るでしょう。そこで先生の教えを垂れ、諸策を講ずると、衛の国の病も治るでしょう。」顔回がそう言うと、
「 間違いなく殺されるね。」と孔子は答えます。
邪悪な愚王が一番嫌いなのは賢者で、鷹のような目で遠くからでも「 真・善・美、また愛 」に少しでも関わっている人間を見つけては、たちまち飛んで行って根こそぎに殺戮するからです。そこで顔回は孔子に心構えを問います。
「 正しく真っ直ぐで、虚心にして雑念、私情を入れず、勉めて純一ならば、( 救国を )達成できるでしょうか? 」
「 独裁者はかたくなに成るだけだ。 」
「 では、内心は真っ直ぐでも外面は相手に合わせ、昔の人々の故事・逸話に託して意見するようにすればどうでしょう。」
これは三国志などでよく出て来る方法ですね。しかし孔子は顔回の答えに、
「 ああ、」と慨嘆し、
「 どうしてうまくゆくものか! 画策ばかり多く、直接的な危険が薄らぐだけの事だ。
お前はまだ、心を師としている。」
さあ、ムツカシイ事を言い始めました。
この『 心 』というのは、森三樹三郎先生は、「 分別心 」と訳されています。何やら仏教っぽくもありますが、この場合は問題の構成要素を見抜き、本質を把握し、総合判断する事でしょう。高い知性の営みです。ところが、
「 それじゃだめだ 」と。
ここにおいて顔回は、お手上げに成ります。そもそも『 方策 』を論じていたからです。途方に暮れ反対に、
「 どうしたら良いでしょうか? 」と質問します。これに対し孔子は、
「 斎せよ。」と。
『 斎 』とは、斎戒沐浴の斎です。水をかぶったり断食したりする、あれです。何の事やら解らぬ顔回に対し、『 心斎 』と補足します。心斎とは、
「 志を一にせよ。耳で聞かず、心で聞かず、『 気 』で聞け。
気に応ずる者は、『 虚 』であり、受容者である。
『 道 』、すなわち生命力は虚に集まり、満たす。
無意識からの健全な生命力は、意識の画策を放棄したフラットな状態で動き出す。
この「 気に反応する虚心の状態 」 である事が、心斎である。」
すると顔回、たちまち了解し、
「 今までおのずから顔回でしたが、今、私という存在を忘れ、顔回は消え去っていました。これを『 虚 』と言ってよろしいか? 」と聞くと、
ついに孔子は、
「 尽( つ )くせり。」 理解し尽くした、と言います。
気に反応する ……… 表面的な現実のやりとりを成立させている意識より、一つ深い意識の層で感受し、対応する。だからこの時、意識、自分は消え去っている。
近年の表現では、「 空気を読む、空気に従う 」などの事でしょう。鹿を連れてきて、「 これは馬だな? 」と言われたら、その冷たい語気と、薄く笑う、殺気を帯びた目、あるいは判別台のようなその『 場 』全体の雰囲気に反応し、「 馬です。」と答える。
( こういう時、間違っても受けを狙って、
「 馬鹿、」
とか言ってはいけませんよ ……… )
しかしそれならば、単に悪の片棒を担ぐだけに成ってしまう。そこで、
『 志を一( いつ )にせよ。』 です。
『 志 』とは、心をその方向に向ける事。心が何かに向かって進んでゆく事ですから、自分という、その根本的な方向性をもち続ける。
『 自分を保つ。自分は外さない。自分であり続ける。』
という事です。
人間が集まると、瞬時にその場の集合意識を形成し、個人は抗(あらが)いようもなくそれに組み込まれ、その集合意識の何かの役割を、星座の中の一つの星のように演じる事になる。これは強固な心理現象で、心理学者ははっきりと、『 星座 ・ コンステレーション 』と呼んでいます。
しかしそれでも志を持ち続けるなら、その星座、集合意識自体がどこかに『 志 』を持つ事になる。
ここでひとつ『 対論法 』、カウンセリングなどを喩えにした説明をしたいと思います。
カウンセリングの奥義、というより基本は、
「 よく相手の鏡に成る 」
事だと思います。相手の気に、「 保ち続けている自分 」で対応する。そうすると相手は鏡を見て、自分自身へと立ち入り、自らの深い心と対話するのでしょう。自分で顔を直し、元気に去ってゆく。
もし心理学の諸法則や、種々の技術に『 当てはめて 』小器用に対応するだけなら、相談者の無意識はすぐ鋭敏にそれを察知し、ただ白けるばかりでしょう。返って絶望するかも知れません。耳目に反応せず、分別心、はからいを捨て、「 気に対する 」のです。
しかしカウンセラーも、ただ漫然と世間話をしている訳ではありません。終始『 治病 』という事が奥底にある。『 志を一に 』しているのです。だからカウンセリングが成り立つ。しかし、
「 この『 自分をもち続ける 』ということが、いかに難しいか。」
と、河合隼雄博士は繰り返し、注意を喚起されました。つまり、やっているつもりでも、大抵は良く出来ていない。むしろ出来たつもりで喜んでいる時が、一番危ない。
肝心な所でつい、相手に迎合してしまったり、周囲に流されたり、状況に振り回されたりして、それに気付きさえしない。そんな時には必ず、「 自分 」の「 はからい 」が出ている。『 虚 』に成っていない。私も反省する事しきりで、これは「 出来るように成る 」以上に、「 常に気を付けている 」状態かも知れません。
続いて孔子、というより莊子の筆者は、顔回だけでなく、我々にも語りかけます。
人間の集団の世界というのは鳥かごのようだから、お前が入宮しても、その鳥かごの中で遊べばよい。
名声や集団の中での優位、個々の事物にいちいち反応する事なく、語れるなら語り、語れなければ黙り、門や垣根は自ら作ったものだから取り払い、やむを得ない状況の集団を、唯一の仮の宿として身を寄せるなら、理想に近いと言えよう。
出て行くのは簡単だが、この大地の上で生活しない訳にはいかない。
人に使われる身分で巧く「 はからい 」、立ち回るのはたやすいが、天、自分の無意識に対しては、そうはいかない。
「 はからい 」によって生活する者は多いが、「 はからい 」なしに生活する者はいない。哀しい事である。
何もない部屋には陽が差し込み、「 はからい 」を離れた心に吉祥、幸福はとどまる。
それでも「 はからい 」をやめる事をしない者は、永遠に休息を知らず、坐っている時にも走り回っているようなものだ。それでは本当に疲れ切ってしまう。
状況を受容し、分別心を追い出し、『 虚 』にしておれば、鬼神さえやって来て宿ろうとするだろう。人が集まって来るのは言うまでもない。そこで『 志を一に 』する。自分をもち続けるなら、これこそ万物を教え、善に導く道である。
書いていて、「 こうもうまくゆくものだろうか? 」と思いますが、 「 確かに真理ではある。」とも思われます。これは『 伝説の王、禹・舜の依った根本で、伏戯・几( き )きょが生涯を賭けて行った道である。』というから、神業的な身の処し方、意識の状態なのでしょう。
そういえば非常に偉大な人は、案外生ぬるい事を言います。「 こんな漠然とした事を言っている場合ではないのに。」 と焦( じ )れますが、読んでしまう。それで結構、長期にわたり大きな影響を与え、読者も多く、どこからも攻撃されない。
虚にして世間や時代の気に反応し、心の奥底では大切なものをもち続ける ……… つまり『 志を一に 』しているからでしょう。
軽薄な知見により敢えて名前を上げますと、糸川英夫とか、河合隼雄とか ……… 養老孟司博士は、ついつい鋭利な事を言ってしまいますが、やはりそれが売り、本質ではない。みんな学の堂奥を得た人の言葉を、聞きたいのだと思います。
内藤守三という、伊藤博文や大隈重信、岩倉具視 ……… 等々の、立場の全く違う、対立さえする政治家らとしばしば書簡を取り交わした人がいて、自らも国会議員に成ったりし、日本史の岐路にちょくちょく顔を出すのですが、彼もまた、そんな人だったのかも知れません。無名ですしね。
また坂本龍馬。これは実際にどんな人だったか、サッパリ分かりませんが、実にあちこちに顔を出し、そのせいでスパイ説まであります。薩長同盟の誓約書の裏書きに大きく名前が書かれてあり、「 誰だこれはっ? 」と言われるまで、まったくの無名。「 自らは虚 」だったからかも知れません。
「 自らは虚 」だから、立場の違う人とも「 門・垣根 」を無きものとして行動できる。
「 志を一に 」しているから、為す事、思う事すべてが、その一つの目的にかなう。得たものすべてがその目的に向かって、自然に組み上がる。
これが大業を成し遂げる唯一の方法で、名利は諸衆の評価によるので、まったくの無名で終わる事もある。名利など気にしていれば、かなり限定された立場にしか立てないし、人々が業績の大きさに気付くには、人間の寿命では短すぎる。しかし坂本龍馬ほども大きな業績を上げれば、隠しようもない。……… いや、もっと大きな事を成し遂げた人でも、誰も知らないという事も、あったかも知れません ………
そして『 一つなる志 』の内容とは ………
欧米人がよく使う言葉では、『 愛 』だと思います。これも、何の事やら解りませんね。例えば、
「 人々はこの世界は暴力が支配していると思っている。しかし本当にこの世界を支配しているのは、愛の法則である。」など。
これがただの阿呆のセリフなら、まったく無視しても良い言葉です。しかしこれを言ったのは、ガンジー。万単位の同胞が殺戮されるのを目の当たりにしながらも、非暴力を徹底する理想主義者で、しかもインド独立のために有利と判断すれば、第二次大戦にも自ら参戦を選ぶという、苛烈な現実主義者でもありました。考えた末、ガンジーの言う『 愛 』とはおそらく、
『 生存への意志 』
の事だろうと思います。ショーペンハウアー哲学の根本、
「 人間の本質は、生きんとする意志である。」
これは、絶対的な大原則です。
またギリシャ神話でも、時間の神にさえ先立って、エロスが産まれている。 ……… 生や、存在せんとする意志は、常に性( 愛 )と混同されて使われて来ました。原始仏教で言う『 渇愛 』は、「 性愛 」、また単に「 愛 」と訳される事もあります。
生や存在への意志がこの世界を貫き、絡み合い、様々な法則を産み出している。そして、
『 生存への意志は、常にタナトス、死への欲動、誘惑を上回る。』
だから一粒の光の種は、いかなる闇全体に対しても、同じだけの力を持っている。
光と闇とは、そもそもそういう関係であり、闇は光のキャンバスのようなものかも知れません。
この一点において、希望はいつまでも、どこにでもあると思います。
PS.
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
( ファウスト第一部 1336行に引用された、ヨハネ福音書1章5節 )