芥川は天才か秀才か?
( 童謡誕生秘話について )
えー、このたびっ、二十数年来の疑問が、きれいに氷解いたしましたので、あんまり嬉しくって、書きます。
それは、『芥川は天才か秀才か?』と言う問題です。
「芥川は単なる秀才。」と言う場合、それは
「芥川はあんまりアタマだけが良かったので、小器用にいくらでも書き回し、お前達はそれを感心しているだけだ。」
と、暗に言っています。
芥川はたぶん、『異能者』だったのでしょう。一度読んだものは、決して忘れない。そして見た瞬間、それがどんなものだか解る。
専門の学者でも知らないような事を言うので、学者から煙たがられたと言いますし、見過ごされてきた古典を現代風に直したものは、すべてバカ受けします。
(また、この事から芥川を「単なる翻訳者で、小説は書けなかった。」ように言う人もいますが、私に言わせれば芥川は最初から『古典作家』の域に達していたのです。彼にとっては題材など、別に自分で作ろうが、過去から探そうが、どうでも良かったのです。)
さて、芥川への非難ですが、
「『蜘蛛の糸』の三段目を見ろ。あのラストシーンは、余計なものだ。カンダタが地獄に落ちた所で、終わるべきだったんだ。『お釈迦さまがそれを見ておりました。』なんて、どっ白けだ。こんな失敗をするようでは、天才でも一流でもないね。」
そう言われたら、
「ううっ、がるる ………」
と唸って、黙るしかありません。
これに反論するには、その他の作品では、芥川がそう言う失敗を絶対にしない事。その足取りが、惑星の軌道のようにしっかりしている事を、証拠として集めればよいのです。それは出来ます。しかし、彼らが聞いてくれるでしょうか? ………
もうとうに、文学談義で腹を立てるような情熱は失ってしまいましたが、
「普通の作家なら絶対しないような失敗を、なぜ芥川がしたんだろう?」
と、この問題は、ずっと引っ掛かっておりました。
ところがこのたび、すべてのナゾが解けました!
『蜘蛛の糸』は子供用に書かれた作品だった。
のです! そして私は、それを知らなかった。漢字がいっぱい使ってあるので、まさか子供用とは思わなかった。
『蜘蛛の糸』は、児童雑誌『赤い鳥』創刊号のために書き下ろされた。
この事を私に教えてくれたのは、04'05/05放映のNHK『その時歴史が動いた』(子どもの心に歌を ~大正・童謡誕生物語~)でした。
明治以来の富国強兵で、当時、「子供が子供らしく生きられなかった。」つまり『思想』や『イデオロギー』がやかましくて、人間が、子供時代に身につけておくべき事を、学べない状況だったのです。これはある意味で、現代にも通ずる所があるのではないでしょうか?
これを深く憂慮した漱石門下の文人、鈴木三重吉が、児童雑誌『赤い鳥』創刊に立ち上がる。
芥川、島崎藤村、北原白秋、西条八十などなど、当時一線級の作家達がこれに呼応し、本気になって「子供に読ませたい本」つまり、自分が子供のころ読みたかったような本を、自身で作ったのです。
音楽界からも続々と一流の才能が集まります。
これは、感動です。
私は童謡を、『意識の足場』と表現した事がありますが、それもそのはずです。あれは天才達が、非常な熱意をもって作ってくれていたのですから ………
ふだん何気なく聞いていて、あんまり可愛らしかったり、ただきれいだったりするので、そんな舞台裏があったとは、知りませんでした。
さて、そう言う目で『蜘蛛の糸』を見てみると、もはや完璧な作品です。児童文学はだいたい、五歳前後から十歳前後までの読者を想定して書かれると思いますが、それなら新しい良い所が、いくつも見えてきます。
漢字がたくさんありますが、朗読してみると、子供の耳に自然に入ってゆくように、工夫して書かれています。(これは、番組が教えてくれました。)
また、漢字にはルビが振ってありますので、子供が一人で読む事も出来ますし、苦労して読み切るには、ちょうど良い量です。
ストリーも設定もテーマも、あの頃の年代にドンピシャリです。
そして優れた児童文学は、大人が本気で読んでも面白いのですが、芥川は二十年間、それが児童文学である事をさえ、私に気付かせなかった。
ラストシーンですが、児童文学なら、子供を地獄に置き去りにしてはいけません。もう一度、視座を極楽に戻して、最後にはお釈迦様の腕にだっこしてもらい、「地獄、こわかったねえ。」と言ってやらねばなりません。
でないと子供は、「その後その作品を考える事が出来なくなる」からです。むしろ、「お話はそれで終わってしまう」からです。
「あれは、何だったんだろう?」
そう思って、その後もしばしば蓮の池から地獄を覗(のぞ)いてもらうには、反対に、極楽に引き上げてやらねばならないのです。
「極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう。」で、ちょうど終業のチャイムが鳴り、給食の時間と成れば、なおヨシでしょうか? (笑)
芥川の原稿を見た鈴木三重吉は、深くうなずき、
「文章が水際だっている。
芥川が世間にもてはやされるのは、当然だ。」
と、感嘆します。しかし、何度か読み返した後、朱筆を取ります。完璧な原稿に、七十五箇所もの訂正を加えたのです。それはさらに、子供の目と耳に、受け容れられやすく、直されたものでした。
朱の入った原稿を受け取った芥川は、それを読んで心服します。おそらく作品の質は、ほとんど落ちていなかったのでしょう。鈴木に一通の葉書を宛てます。その中には、
「鈴木さんは、すべてがうまいです。
とてもああはいきません。
子供があるから、それで、子供の心持ちがうまく飲み込めているのだろうと思います。」
と言う一文がありました。
このやり取りは、見事です。
家にある角川文庫で見た所、我々が普通目にする『蜘蛛の糸』は、訂正を受ける前のもののようです。考えたら、当たり前ですね。しかし、訂正後の『蜘蛛の糸』も、並べて読んでみたいものです。
そして『赤い鳥』の読者は、その美しい詩に、
「曲をつけて、みんなで楽しんでいます。」
と、鈴木三重吉に宛てます。
天才達の渾身の詩は、すでにそのすぐ内側に、
それは特別な才能を持った人でなくても、その詩をそのまま読んで楽しもうとする人の口から、自然に出てくるほどにもう、確かなものでした。
われわれ凡人と天才とは、本当に近い所にいる。そう痛感します。ちょうど陰と陽、男と女のように、まったく支え合って、二人は同じ家の中で、まるでお互いのために生きているようです。
読者からその手紙を受け取った鈴木には、深く感じる所がありました。衝撃を受けたと言っても良いでしょう。
鈴木は童謡のための歌詞を、北原白秋に打診します。
しかし白秋は、完全な旋律の上に詩を立てていたのでしょう。この時には依頼を拒みます。
鈴木は知る限りの作家に思いをはせました。そして在学時代に一編の作品をなし、鈴木に『宝石のような作家』と言う印象を残して、そのまま姿を消してしまった西条八十を探し出し、作詞を依頼します。
西条は、生活苦から詩を断念していた所でした。詩を、捨てていたのです。
たいへんな所から、いきなり依頼を受けた西条は、ふらり、上野公園に忘れた詩を探します。そして目に入ったのは、なんと、虫けらのようにたむろしている浮浪児の群れ! 西条に詩を思い出させたのは、どんな美しいものでもありませんでした。
「いったいこの子達に何が必要か?」
それは、現実を相補してやまない『高貴な幻想』
どれほどの絶望や悲惨にも釣り合うような、子供達がこれから、つらい目にあえばあうほど、その分だけ強く輝くような、『高貴な幻想』!
これを、与えねば! ………西条は、そう思いました。
曲は、小学校で音楽を教えながら作曲家を目指していた、成田為三に頼みます。
最初の童謡『かなりや』が、成田の伴奏で、その小さな教え子達の声で『赤い鳥』のメンバーの前に歌われた時、鈴木の目からは滂沱の涙が、とめどなく流れ落ちたと言います。
涙は小川と成って、海に注ぐように、後に北原白秋と山田耕作をめぐり合わせ、大きな流れを作り、一つの分野を形成します。
一度目は第二次大戦で、二度目は現代に、打ち消されそうに成りましたが、そのつど燃え上がり、もはや、消える事はないでしょう。