64 火水
未( いま )だ成らず。水の上に火を置く。全爻不正。されどすべてに応・比あり。まったくチグハクで混乱しているが、すべてに手がかり、足がかりがある。
坎( 狐 )が下卦にあるので、子狐。力弱く川を渡り切る事が出来ない。未済から脱するどころか、途中で溺れて事態を更に悪くする ……… というのが基本的な象意ですが、混乱期には全てに応・比がある。誰に何を言っても一応聞いてくれる。何を提案しても、始めようとしても、一応方針として取り上げられるので、効果的と思われる努力を継続して、決してあきらめず、未済から脱します。
成りそうで成らない責任放棄、中途挫折の暗示があるので、最後まであきらめずにする、出来るまでする訳です。
易経最後の卦は、創業期の混乱を彷彿とさせます。いつか「 成り終る 」ための混乱です。
易経が既済ではなく未済を最後に持って来た事には、まことに感慨深いものがあります。今日死ぬにしてもそれは新しい門出で、人生には終わりがありません。
「 一切の存在には終わりがない。時間には始まりもなく終わりもない。むしろ一切の始まりと終わりとが、時間の中にある。永遠とは長い時間の事ではなく、時間のない世界。無限とは果てのない広がりではなく、空間のない世界。そこへ至るには、ほんの一歩、自分の内側に足を踏み入れればよい。」
この世界に『 完成する、済む 』などという事は、まったくありません。どのような良い卦でも悪い卦でも、それは断片の一つです。そしてエンデの『 モモ 』を読んだ人が、誰でも漠然と思うのは、「 いったい時間とは、心の何かではなかろうか?」という事です。
最後には、いつも永遠に向かって、放つ。すべてを。
我々の人生も、ついにはそうありたいものですね。
いまだ我 あまりに若く 傲慢で
軽挙妄動 一つ恥かく
人間、奢( おご )ればそれで、おしまいです。進歩が止まるや退歩が始まり、正常な意識を失い判断を誤る。そしてそれに気付きもしない。人を見て、あるいは自分を振り返り、何度もそう痛切に思いました。
どんな人間にも必ず優れた所があり、それをもって「 自分はたいしたものだ。」と思っているうちは、苦悩が続きます。「 自分は馬鹿だ。」そう痛感した時、初めて努力を始めます。凶事を当然の事と受け止め、嘆かずそれを乗り越えようとし始めます。
どんな優れた人、たとえ歴史に名を残すような大学者でも、相当に馬鹿な所があります。いわんや我々をや、です。
むしろこれは、才能のある人ほど気を付けねばなりません。加えて、自分の才能に引き回され、自分を破壊するという傾向すらあります。
「 自分は本当に馬鹿だなあ。」と思い知った時、初めて本当の努力が始まります。ここがスタートです。
「 これでは一生駄目だ。この人生を棒に振ってしまう。」と実感しなければ、人間、努力を始めません。
若くしてこれに気づく人こそ、大人物と言えましょう。一生気づかない人も多いですが、私は、「 それでは次の人生でも、最初っからやり直しに成る 」 ような気がします。
いまだ時 成らずと知って
不(二)確たしかな
川を渡らず 福を得るなり
初爻と同様に力不足ですが、それを自覚しており、対岸を眺めながら川を渡らず、計画を練り、実力を蓄え、徐々に好転してゆきます。
いまだ場は
整わぬのに 行くならば
上下と長(おさ)の
三者に諮( はか )れよ
トップと上下の者に伺え。この爻、基本的に凶。しかし進みたければ、上下の賢人とトップに相談して、進むべし。されば得る。ところが就業者の毎日は、この繰り返しです。
いまだ悪 境を越えて
攻め入りぬ
よく平らげて 太守にぞなる
ついに内卦の「 水 」の中から、外卦の「 火 」 に脱しました。
しかし四爻はまだ外卦の初爻ですので、焦らずに足場を固め、目的から目を離してはいけません。そうすると、無事目的を達成します。
原典では「 三年にして大国に賞せらるる事あり 」
いまだ貞 王の位に 座するのに
周囲にかしずき 周囲は助くる
( 大吉 )
『 貞 』とは、欲望の指揮者、舵取りの機能。しかも女性原理に属する。貞はそのまま『 女性原理 』と考えていいかも知れない。
終( つい )に成り
いまだ生きてる この私
駄酒あおれど 飲みすぎるなよ
( 吉 -乾杯- )
何もかもを為し終え、無事に「 私 」 が、今ここにいます。
これは祝杯を上げてもよろしい状況です。
「 飲みすぎるなよ 」 というのは実は原典にもあり、それは、
「 明日もある。今日死ぬにしても、人生に終わりはないぞ。」という、未済の真意です。